『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎)

●久しぶりに『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎)を読み返してみたのは、ジョン・ヒューストンの『火山のもとで』をビデオで観たからなのだった。『「雨の木」...』を構成する連作の短編にはどれも、マルカム・ラウリーの『活火山の下で』の「こだま」が響き、その主題と強く結びついているのだが、ヒューストンの映画はそれを原作としたものだ。恥ずかしながらぼくはラウリーの小説を読んでいなくて、この小説に関する知識は、ヒューストンによる、良い出来とは決して言えないこの映画を通じてのものしかない。映画を観てから読み直すと、『「雨の木」...』という小説がいかにラウリーの小説と深く響き合っていたのかが、(あくまで間接的にではあるが)今更ながらに分かるのだった。(ぼくは大江氏の小説に関しては通り一遍の読者でしかないが、『「雨の木」...』だけは、新刊で出た頃から今まで、折に触れて何度も読み返しているのだった。)
●それにしても『「雨の木」を聴く女たち』という小説は面白い。この連作小説は、作中でも触れられているが、まず「雨の木(レインツリー)」というメタファーの喚起力によって書き出されているのだが、最初の短編が書かれたことによって次の短編が生まれ、それによってまた次が生まれる、という過程で、(それがどこまで「現実」を反映したもので、どこからが作家によって生み出された虚構なのかは判然としないが)小説の外で起こった事柄や他者の反応などを取り込んで書き次がれてゆくなかで、様々な細部が、おそらく大江氏の事前の予想や制御を越えたところで響き出していて、それによって、とても豊かなで、複雑なものになっているように感じられる。(この小説は大江氏の小説のなかで登場人物がもっとも活き活きと描かれているよに思える。柄谷行人は、大江氏の小説には固有名がなく、タイプ名だけがある、と書いているが、少なくともこの小説は例外であると思う。)だからぼくは、「雨の木」というメタファーの力に収斂してゆく最初の短編と、連作のテーマを凝縮して「纏め」ようとしている最後の短編の間に挟まれた、中間にある3つの短編がとても好きなのだ。確かに、「雨の木」というイメージは豊かな喚起力を持つが、この小説の面白さはそこ(だけ)にあるのではない。この小説の主題と言うか、この連作に通底している「気分」のようなものは、中年を迎え「死に向けて歳をとる」ことを意識した「僕」の身体が、改めてその周囲にある「女性的なものの力」を発見すると言うか、それに触れる、というところにあると思われる。(この点で、大江氏の登場人物たちは、深刻な危機のなかにいたとしても、ラウリーのそれよりもずっと、楽天的で滑稽であり、それが何よりの魅力であろう。)だがそれが、最後の作品(『泳ぐ男---水のなかの「雨の木」』)のように、若者=男性の(自身でも制御不能な)性的な衝動と、それをもてあそびつつも、その暴力と化した衝動を自らの生命をかけてまで受け止め、受け入れようとする女性(と、その関係を「見ている」中年男性である「僕」)、という形に一般化して「纏め」てしまうのは、ちょっと違うのではないかと思う。それよりも、中間に置かれた短編での、大江氏を思わせる「国際作家」である僕と、その「僕」の大学時代からの友人で「複雑な感情」によって結ばれる高安カッチャン、そしてそのパートナーで元香港映画の女優だった中国系アメリカ人ペニーの3人の、互いに反目しながらも、妙な成り行きでつづいてゆく関係の、その成り行きや、それぞれの場面での非常に複雑に屈折した描かれ方そのもの方が、ずっと面白いし、「女性的なものの力」を具体的に活き活きと伝えていると思う。(余談だが、この連作は最後の作品を除いて全て、主人公の作家「僕」の慣れない海外での滞在のなかの出来事として設定されていて、その慣れない環境のなかでの「僕」の頼りなく揺らいでいるような感覚が的確に描かれていて、それがこの小説の基本的なトーンとなっている点も重要だと思われる。)
●具体的な細部の面白さについて。例えば、連作の4作め『さかさまに立つ「雨の木」』で、高安カッチャンについて「僕」が書いた小説を読んで、それを不当だと「僕」を責め、「私はもうあなたの友人ではないと思います。」とまで手紙に書いたペニーと、「僕」が、これもまた複雑な成り行きから再び言葉を交わし、そして性交までしてしまうのだが、その性交の後、ペニーは次のように言う。
《私と高安の性交は、この一、二年高安が衰弱してきた後も、数は少なかったが、そのたびにうまくいった。それは良い性交(グッド・ファック)でした。高安の死後、幾人かと性交してみたのだがうまくゆかない。それも心理的な側面とは別に、物理的な段階でうまくゆかないと感じる。(略)高安が日本人であったから性交が具合良かったのかと、プロフェッサーとためしてみたが、やはりうまくゆかなかった。高安の肉体そのものに、独自なところがあったのだ。プロフェッサーにも良くない性交だったでしょう?それでも努力してくれていることに気づいていた。おそらくそれは私の性器の位置に関係していると思う。私と高安とはお互いの性器の位置や角度まで、他に代わりを見いだせぬ組み合わせだった。》
それに対して「僕」は思う。
《僕としてはあいづちの打ちようもなかったが、翌朝眼ざめると、腹や背なかに、永年の間、あるいはかつて一度も使ったことのない部位の筋肉が、軽く痛みをうったえてくる。それはペニーのいったことを納得させたのだ。》
この部分の引用だけでは、小説全体のなかでこの細部の持つニュアンスが伝わらないと思うけど、高安カッチャンは、誇大妄想的なところのある困った人物で、他人の著作やアイデアをまったくそのまま自分のオリジナルだと思い込んでしまうような人で、そしてその傾向は多少なりとも恋人のペニーにも共有されている、と「僕」は感じている。そしてペニーは、そのような高安カッチャンの並外れた才能(それは「僕」やその同級生たちからは「笑い」と「哀れみ」によって迎えられていたような種類の「才能」である)を信じて疑わず、そして、自分とカッチャンとのほとんど神秘的なまでの運命的結びつきをも信じているのだが、それに対しても「僕」は冷淡な感情しかもっていない。このような前提があって、しかも性交の後の多少なりとも情緒的な雰囲気のなかで、「性器の位置や角度」といった、何とも乾いて即物的な「結びつき」についての言及がペニーの口からなされ、そしてそれに対して「僕」は、「永年の間、あるいはかつて一度も使ったことのない部位の筋肉」の軽い痛みという、これまた即物的な反応によって、それを肯定せざるを得なくなる、という訳なのだった。(本当はもう少し複雑なニュアンスがこの細部には込められているのだが、それについては実際に小説を読んで下さい。)
こういう書き方で、この細部のニュアンスがどれほど伝わるのかは心もとないのだが、ともかく、このような絶妙な細部の積み重ねや、細部同士の予期せぬ響き合い(の滑稽さ)によって、この小説は、ある関係のあり様の(簡単には割り切れない)複雑なニュアンスを、生々しく描きだすことに成功していると思うのだ。