●お知らせ。発売はまだちょっと先みたいですが、ウェブに、もう目次が発表されているので。
早稲田文学」4号の大江健三郎特集で「極限で似るものたちのつくる場」という論考を書いています。五十枚を超えるテキストが掲載されるのはずいぶん久しぶりです(大江論以外にもいろいろ書いてはいるのですが、なかなか掲載までいかない…)。
http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/index.html
「極限で似るもの」というのは荒川+ギンズの「極限で似るものの家」からきていて、荒川+ギンズ(の、「意味のメカニズム」の「Reversibility」というチャプターと養老天命反転地の「極限で似るものの家」)に導かれて、大江健三郎の、時間を置いて発表された二つの短編小説を、あたかもディブティックであるかのように並立的に読むという内容です(二つの短編とは、86年に発表され『河馬に噛まれる』に収録された「四万年前のタチアオイ」と、92年に発表され『ぼくが本当に若かった頃』に収録された「茱萸の木の教え・序」で、どちらもタカチャンという同じ女性についての話です)。
こう書くと、いかにも「コーナーを狙った」もののように聞こえるかもしれませんが、あくまで、近作まで含めたこの作家の小説のあり様に忠実であろうとすることによって、結果としてこうなったのでした。実際、最新作の『水死』と前作「アナベル・リイ」は、共通の部分を持ちながら反対方向のベクトルをもっているという意味でディブティック的ともいえて(この点については五月の大江シンポの時に少し話しました)、さらに、大江小説にあきらかに刻まれている双数性は、ごく自然に荒川+ギンズの反転という概念とつながるものだと思います(双数性や反転は、世界を陰・陽や聖・俗のような神話的二項に分割するということとは根本的に異なるという点で)。加えて、二つの短編の登場人物である「タカチャン」は、両作中で、重なりつつも正反対であるようなY・Sさんという女優とダブルイメージのようになっていて、この二人の混合が、最新の二作に登場する(正反対ともいえる性格をもつ)二人の女優の源流であるようにも思われます。
つまり、過去の、しかも代表作とは言えないかもしれない作品について書いてはいるのですが、それは隅っこをつっつくようなマニアックな趣味性によってではなく、それがそのまま、この作家の現在地点(の最も刺激的な部分)と響き合うものだとして捉えているつもりです。短い作品を対象とすることで、そこを出来る限り精密に捉えたいと言う気持ちもありました。つまり、この二つの短編をディブティックのようにして読むということを通じて、この作家の「現在」のなまなましいある部分を浮き彫りにできるのではないか、と。
(両作はこの作家のメジャーな作品とは言えないので、基本的に二つの短編を読んでいない人が読むことを想定して書きました。これらはこんな風に面白いのでぜひ読んでみてください、という風に。)
それになにより、「茱萸の木の教え・序」という短編は、それ自体がとても奇妙で、魅力的な小説です。大江シンポの時にパネラーのどなたかがこの短編についてちらっと触れていて、それが気になって読んでみたらすごく面白かったというのが、この論考を書く直接的なきっかけでした(そしてそれに具体的な形を与えてくれたのが「意味のメカニズム」の「Reversibility」のうちの一枚のプレートでした)。
●あと、このテキストはあくまで大江論で、荒川+ギンズを透かして大江を見ることで見えてくるものがあるということなのですが、それは逆に、大江を透かして荒川+ギンズを見ることで見えてくるものがある、ということもアリだということだと思いっています。
●あと、これはまったくの余談ですが、最近のあるタレントの引退騒動に触れて、ぼくはまっさきに伊丹十三のこと(あの襲撃された時の顔)を思い出していました。もし本当に、あのタレントが右翼とのトラブル(への恐怖やその厄介さ)が原因で暴力団と接近したのだとすると…、と考えると、大江小説に常に存在する「右派との間の緊張」が、よりなまなましく感じられてくる気がします。それはもはや、思想的な次元の問題ではなく、(理屈以前にある)暴力への恐怖と、その恐怖への抵抗という意味で、今日でもなお、なまなましい感触をもつものなのだなあ、と。