2019-09-05

柄沢祐輔さんセレクトによる小堀遠州ミニツアーの二日目。高台寺の傘亭と時雨亭。千利休がつくったとされる二つの茶室が移築され、その二つ茶室の間を遠州がブリッジした。次に、圓徳院の北庭。エリー・デューリングが京都で一番好きな場所だと言ったという。そして最後に桂離宮を見学。

●どれもすばらしかったが、特に桂離宮はすごかった。俯瞰で見れば一つの広大な広がりである庭園は、その内部にいる人間にとっては、視点の位置(立っている場所や視線の方向)によって不連続に分割される、いくつもの異なる場面の重ね合わせになるように配置されている。回遊路に沿って移動することで、いくつもの不連続な空間が時間的展開として次々にあらわれる。空間の変化は連続的なものではなく不連続的で唐突であり、時間(歩行による移動)が、本来なら繋がらない空間を無理矢理に串刺すように繋げることになる。

(空間の非連続性は、時間の連続性をもぶった切るような効果を生む。場面1234という順番で移動したとしても、それぞれの場面が非連続的かつある程度自律的であるため、その順番=展開は相対化される。それは、3142という順番であってもよかったかもしれないし---というか、頭のなかでそのように組み替えられるかもしれないし---あるいは、時間的展開それ自体が後退し、全ての場面1234が同時的、重ね合わせ的な経験としてあってもよいかもしれない。3の場面で得られた感覚が、しばらく先まで移動し、対岸から3の位置を見返すような8の場面において---38というモンタージュによって---再解釈されたりもする。それぞれの場面の結合や関係-関係の組み替えは、かならずしも回遊路の順番=時間的展開に拘束されるものではない。)

(とはいえ、そうだとしても、それらの場面を経験するには、我々は実際に自分の身体をもって庭園を順番に歩かなければいけない。右に曲がったり左に曲がったり、坂を上ったり下ったり、常に足元への注意に拘束されながらも遠くへ視線を投げたり、池に落ちるのではないかと緊張しながら細い橋を渡ったりする必要がある。経験を得るための「手続き的順番」はショートカットできない。)

(上の、二つの括弧でくくった部分が両立している、ということが重要ではないか。そしてこのことは、後述する---下にある括弧でくくった---部分と深いつながりがあると思う。)

非連続的である各々の場面は、空間の構成要素、スケール、表情、視線の抜け方や視線が導かれる方向などが、それぞれ異なっている。しかし、各場面の「違い」は、そのようなたんなる図としての、あるいは意匠としての違いに留まるものではない。それは、我々が空間を感知するための地を揺さぶるような「違い」を含んでいる。たんにスケール感が違うのではなく、スケール感を計る(潜在的)物差しそのものの「違い」として仕組まれている。すべての場面を貫く共通の物差しがないまま、いくつもの非連続な場面や、場面と場面の重ね合わせのなかを移動する経験は、我々のなかで普段は自動的に働いている「スケール」という感覚を揺さぶり、スケールがよく分からなくなる。

(大きい、小さいがよく分からなくなる。遠くまで視線が伸びる場面が広大で、茶室のようなごく限定された広がりが小さいということではなくなる。自分が、広大な庭園を歩いているのか、自分の頭のなかを経巡っているのか、あるいは、小さな模型を外からのぞき込んでいるのか、そのどれでもあり、どれでもないような感覚になる。)

●見学が終わった後に荒川修作が想起された。荒川+ギンズが、やりたくて、やろうとして、でもやりきれなかったことの多くが、桂離宮では実現されているのではないかという感じ。

 

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