●だらだら読んでいるうちに、『ハイ・イメージ論』(吉本隆明)がだんだん面白く感じられてきて、『ニューメディアの言語』をそっちのけで、こちらを読んでしまう。書かれていることに即座に同意できるかどうかはともかく、いろいろと味わい深い。
●例えば吉本は「映像都市論」で『ブレードランナー』における「世界視線」のあらわれについて書いている。
(世界視線については下のリンクを参照
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140903)
(1)舞台である近未来のロサンゼルスが、空を飛ぶ自動車よりも高い位置から(つまり、「人」の視線ではない視線から)俯瞰的に捉えられたカットがある。(2)しかし、地上の場面を構成するカットでは、建物などが折り重なって、(1)の視線がやってくる由来であるはずの「空」が、フレームに入らないようになっている。空は、地上を見ているが、地上はその視線の由来(空)を見ない。視線は一方通行であり、俯瞰と迎角の「切り返し」が成り立たないよう操作されている。地上は閉ざされている。
この非対称性が、CGにおける、三次元座標そのものの視覚(=俯瞰のカット)と、それを特定の位置から見たものとして構成(計算)された平面スクリーン上の映像(=地上の場面を構成するカット)とに対応する。それが意味することは、CGの映像の背後には必ず座標が存在するのと同じように、閉ざされた地上のカットの裏に、つねに潜在的な俯瞰のカットが含まれていることが意識され、地上のカットに次元が一つ付け加えられることになる、とする。逆から言えば、地上で起こる具体的な出来事やアクションは、既に俯瞰カットの中に包摂されており、その内部にあることになる。世界が、吹き晒しの「外」にあるのではなく、世界視線の「内」にあるような感覚が生まれる。ある意味、世界が予め「想像されたもの」の内に閉じ込められる。
●これに次いで吉本は、人間が立っていたり、座っていたりする高さの視線を「普遍視線」として、「世界視線」と「普遍視線」との関係のあり様によって、伝統的な空間と新しい(情報的)空間とを腑分けする。伝統的な空間は、逆世界視線(地面が空を見る視線)と普遍視線との交点によって掴まれる空間で、新しい空間は、(「ブレードランナー」がそうであるように)世界視線と普遍視線との交点において掴まれる。前者は、地上から空を見る視線が人の視線と交わる地点にあり、後者は空から地上を見る視線が人の視線と交わる地点にある。つまり、大地(≒自然)を背景とする空間から、世界視線を背景とする空間にかわる(逆転する)ということだ(この、空からの世界視線は、未来からの――というより「終わり」からの――視線という風に、時間的なものに変換もされる)。
そして、現代の都市の景観は、この二種類(二方向)の空間が混在することによって多重化されているとする。この、二種類の世界視線の重なり(+普遍視線)を一つのフレームにおさめるような映像が、現在の最も高度な映像だとされる。
●次の「多空間論」では、視線の方向の逆転に次いで、内と外との反転、包むものと包まれるものの反転が記述される。
まず、中世以前の遠近法が主に屋外を描くためのものだったことに対し、ルネサンス期においては、屋内(教会内)空間を(しかも教会内に)描くことに情熱がそそがれたことが指摘される。
ルネッサンスは、空間処理の仕方としては想像上でまったく自在になった高さや遠近の視線を、スムーズに接続する方法を前提とした、視覚的な遠近法を並べてみたい願望を再生させたという意味をもっていた。かれらの画家たちが、教会の内部の空間を、俯瞰あるいは迎高(逆俯瞰)の景観と同じような手法で描くことに専念したのは、それがただの遠近と俯瞰(逆俯瞰)の視線の復活と再生のようにみえても、すでに想像上の自在さを手に入れ、その空間と時間の識知の転換の自由を獲得したあとの復活と再生ということを表象している。(…)外部の野外空間を描けばこの復活と再生は、ただの自然な人間の視覚像による景観と、どこも変わりがないとみなされてしまう。》
つまりここで言われているのは、ルネサンスの遠近法がたんなる自然な視覚の再現ではなく、その背後に「三次元座標」の成立があり、その抽象的グリッドの操作によって、その内部を視線が自由に移動したり、複数の空間を接続したりすることも可能になったのだ(《想像上の自在さを手に入れ》た)、ということだろう。つまりここに、プレ3DCGとも言える「世界視線」が既に成立している。さらに言えば、ルネサンスの建築にも、その背後に世界視線が存在する、といえよう。
●そしてそれを受けて、現代の東京の景観に話が移る。林立する高層ビル群は、まるでルネサンスの教会の「内部」を思わせる空間をつくっている、と。
《墓地のなかの墓標みたいに接近して林立した現在の超高層ビルの群れは、俯瞰の視線から天空を排除するか、逆に人間がビルのあいだの道路を歩きながら迎高(逆俯瞰)する視線でみられたとき、著しく教会堂の内部の広間の景観と似てくる。前面にみえる二つの超高層ビルは、教会堂のなかの二つの大支柱になぞらえられるし、遠い奥行きを塞いでいる超高層ビルは、教会堂のなかの奥の柱とそれをとりまく装飾に似ている。》
これは、ルネサンスの建築が既に外部(都市)空間を内に織り込んでいるからということもあるだろうけど…。そして、外が内になることによって、実在する景観が「映像化(想像内化)」するのだ、と。
超高層ビルの密集地帯がしだいに天空を視野からのぞいてつくる俯瞰あるいは迎高(逆俯瞰)の視線が作り出す空間が、そのまま建築の内部空間の光景に転化している。ということは、そのまま現在の大都市の景観が実在から映像に転化する契機をもっているのとおなじことを意味している。わたしにはこれは絵画の空間処理の技法の完成をしめす重要な意味をもつようにおもえる。現在の大都市が、超高層ビルが密集する地域の空間から、しだいに映像化してゆき、絵画や映像の作品に近づいてゆく契機としてみることもできるものだ。わたしたちがやっと現在の大都市を映像化する契機を、すくなくとも多空間処理から把まえ得たことを意味するからだ。》
●内と外とが何重にも折り返されたあげく、最終的には、現実が絵画や映像(の技法、座標)の内側に包摂される(それこそが《絵画の空間処理の技法の完成》とされる)。世界が、操作可能な想像されたものの内部に入り込む(テクノロジーの「標的」となる)。おそらくこのような事態が「世界視線」の成立と言われるものだろう。ここでは端折ってあるけど、このテキストでは、一応は(かなりざっくりとではあるけど)紀元前の絵画からキリコにまで至る美術史の流れのなかに、現在の「現実の映像化」が置かれていて、ポストモダン的な切断ではなく、過去との連続性のあるものとして記述されている。
(このように考えることを受け入れるとしたら、いわゆる「近代絵画」は、まさに世界視線=《絵画の空間処理の技法の完成》との闘いだったことになり、そしてその戦いは、現在ではアニメという場で継続されている、と言えるのではないか。)
●このような議論は、これが書かれた八十年代後半に読まれたなら、よくあるポストモダン的な言説の一種と読んでしまうだろう。しかし今、まさにコンピュータとデジタルテクノロジーがあらゆるものごとを呑み込んでしまいつつある現在において読むと、それとは別の、生々しいリアリティが感じられる。