●モーリス・ルイスは本当にすばらしい。ハーレム状態で萌え死にしそうになる、ルイスのカタログ・レゾネ
http://morrislouis.org/paintings/gallery/stripe_paintings/all
●吉本の本(「ハイ・イメージ論」)のおもしろさは、それが臨死体験(幽体離脱)の話からはじまっているというところが大きいのだなあと思う。ベッドに寝ている自分を治療している医師や看護師の姿を病室の天井のあたりから見ている自分、というような話から「世界視線」という概念が導かれている。だから、現代の世界全体が、臨死体験の中に入り込んでしまっている、われわれは臨死体験のなかを生きている、という感触が、世界の分析や理論が構築のなかからたちのぼってくる。この感じが、リアルであるだけでなくとても魅力的である。
だから「世界視線」の成立は、一方で、テクノロジーが世界を手中に収めてしまった(世界を「標的化」した)ということのあらわれであると同時に、それが人間の想像力の原型の一つと合致した、非常に魅惑的なイメージとしても把握されている(勿論、へーゲルからの影響というのも大きくあるのだろうが)。十分に発達したテクノロジーは魔法と見分けがつかない、というような世界でもある。吉本の書くものが時々、無防備にテクノロジーと資本主義礼賛ともとられかねない調子をみせるのはそのためでもあるのだろう。
(「世界視線」というのは、あくまでイデアルな概念であり、比喩であり、どんなにテクノロジーが発達したとしても、実際には世界の全てを完璧に把捉することは、おそらく出来ないであろう。世界視線は虚構的な「無限遠点」からの想像力だ。そのような意味では、世界には実際は常に穴が空いているし、隙間だらけだと言える。世界のそのような側面は「世界視線」という概念ではとらえられないだろう。しかし一方で、「世界視線」という比喩が強力なリアリティをもつような状況が、現にあることは否定しようがないと思われる。)
これは、危険であるとしても、とても魅力的な想像力で、例えば、これによって、宮崎駿庵野秀明のような、「世界壊滅後の世界」を描くような物語とはまた別の、テクノロジーとの関係をめぐる物語が可能になるように思われる。それは、現実であると同時に冥界であるような世界、というか、冥界こそが「現実」であるような世界となる。しかしそこは、冥界から決して抜け出せない(生そのものが臨死体験である)世界でもあろう。冥界1から抜け出してもそこは冥界2であり、そこから逃げても冥界3に至るだけだ――世界はいくらでもバージョンを変化させ、その根拠は世界視線だけしかなく、しかし世界視線というグリッドからは逃げられない――というような世界だろう(現代では既にそういう物語はアニメやラノベに溢れているけど…、代表的な例としては押井守とか、あるいは、多世界ものやループものは、世界視線を前提としつつ、そこになんとか穴を見つけ出そうとする物語なのかもしれない)。
テクノロジーによる世界の支配は、人間を、人間の想像力の内部に閉じこめる。インナースペース? 科学とテクノロジーの力によってこそ、幽体離脱は可能になる。実際、現在の資本とテクノロジーが世界をどんどんそのようなものとして書き換えようとする勢いは、吉本が「ハイ・イメージ論」を書いていた頃とは比べものにならないだろう。
(勿論それはことの一面で、あらゆるテクノロジーは軍事目的に転用可能であり、戦争と軍需産業、あるいは権力闘争こそがテクノロジーの発展の源泉だとさえいえるわけで、世界が壊滅する危険――テクノロジーそのものによってテクノロジーの基底が破壊される危険――は常にあり、だからきっと、世界の破滅の物語も、それはそれで何度も繰り返し回帰するリアリティをもつだろう。)
●だが、吉本隆明が海でおぼれて意識不明になった時には、臨死体験のようなものは一切なかったらしいと、以前、金子遊さんから聞いた。泳いでいて、血の気がすっと引くのを感じたので、まずいと思って岸に戻ろうとした、その次の瞬間から意識がすぱっと途切れていて、次に気がついた時は病院のベッドの上で、一週間くらい時間が経っていたという。その間の意識は完全に真っ白で、夢も見なかったと本人が書いているそうだ。