2019-06-03

●『虚構世界はなぜ必要か?』を読み返していた。

この本の一番の元になった講義を行った2013年の冬頃は、カーツワイル『ポストヒューマン誕生』(この本は現在では『シンギュラリティは近い』というタイトルになっている)やストロス『アッチェレランド』などを読んでいた時期で、テクノロジーの発展によって人間の「生と死」や「自己」のありようがまったく変わってしまうということが、SF的な思考実験や未来予測の話ではなく、自分のすぐ目の前に突きつけられたリアルな問題として迫っているのを生々しく感じていた時期だった。

カーツワイルは、2045年以降に人は死ななくなるということを言っていて、そして彼の本は、それが必ずしも荒唐無稽な与太話とは言い切れないようなリアリティがあるということを感じさせるものだった。それは、もしかしたら自分(たち)は「死ぬ人間」の最後の世代(「死なない人間」にぎりぎり間に合わない世代)なのかもしれない、という、常識的に考えればバカげたとしかいえない考えを、そうそうバカにできない考えとして受け取らざるを得ないのではないかという感触を、かなり強く与えられるものだった。

(「シンギュラリティ」という言葉が流行る二年くらい前で、当時、この話を人にしても、ただポカンとされるだけだった。今や、シンギュラリティという言葉が流行ったことすら忘れかけている人が多いけど。)

つまり、人間は長くても百年くらい生きて死ぬ、この件に関してはどんな金持ちでも偉大な人でも平等である、という、常識の根底にあるような死生感が、テクノロジーによって強く揺るがされた時期だった。金持ちは平気で千年くらいは生きるような時代が、自分が生きているギリギリくらいの時期(この「ギリギリくらい」というのが生々しいのだが)にやってくる可能性があるかもしれない(それは、不死のリアリティであると同時に、死の不平等が実現するリアリティだ)、ということをはじめて認識した時期だった。これはかなり大きなショックで、この感じによって、「死」というものに対する捉え方が大きく揺らいだ。

2013年の講義は、このような背景になかで行われた。それは、フィクション(アニメ)が「冥界(あの世)」というものをどのように表象しているか、あるいは、「この世」と「あの世」との関係を、世界観としてどのように組み立てているのか、そして、それがテクノロジーの発展によってどのように変化しているのか、ということを、様々な作品の例をあげながら、いくつかのタイプとして形式化してみるというような内容だったと思う。テクノロジーが人間の死というもののありようをドラスティックに変化させているという、当時の自分の「動揺」を反映していた。つまり、死というもののにおいがとても濃く香っているような内容だったと思う。

その後、2014年、2015年と講義が繰り返されるうちに、フィクションのなかで描かれる「冥界」というのは、フィクションのなかでフィクションとして機能しているものだ(あるいは、フィクションの世界観における「共同性」の基底を支えているフィクションだ---『共同幻想論』の「他界論」のようなものとして)という認識が強くなり、フィクションによってフィクションの機能や意味を考えるという方向に、関心の軸足が少しずつシフトしていって、「死のにおい(動揺)」は薄れていったのだと思う。

だが、改めて読み返して、最初の講義の時点にあった「死のにおい」のようなものが、(特に本の前半には)思ったよりも残っているものなのだなと感じた。そう感じるのは自分だけかもしれないが。

●『虚構世界はなぜ必要か?』刊行イベント《「虚構」と「制作」》(6月8日・RYOZAN PARK巣鴨)。

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