2024-10-29

⚫︎『羊をめぐる冒険』の後半(講談社文庫の下巻)を読んだ。なんともバランスの悪い奇妙な小説だった。長編小説というより、ひたすら引き伸ばされた短編小説みたいで、この時期の村上春樹の「物語の作れなさ」っぷりが露呈している。物語が立ち上がりそうな気配が重ねられるばかりでいっこうに物語が始まらないと思っていると、ありえないようなご都合主義的偶然でいきなり話が急展開し、話が動いたと思ったら、また停滞して、停滞がずっと続く。小説の終盤は、停滞こそが主題となる。

(物語の終幕に大きな役割を担う「羊男」という奇妙なキャラクターも、予兆も伏線もへったくれもなく、まったく唐突に登場する。これはちょっと面白いが。)

この小説が面白いのは、一方に、私的な事情で停滞と喪失に支配される主人公の《僕》がいて、この主人公の喪失感に重ねられるように「日本の近代史の百年」が挿入されるところだろう。私的な事情の真ん中に、いきなり大きなパースペクティブが強引にねじ込まれ、とても大きな時空が開かれる。しかしそこには時空の大きさだけがあり、中身はほとんどスカスカだ。小説の真ん中にぽっかりとスケールばかりが大きい空洞があるような感じ。このバランスの悪さこそが、この小説の特異性になっていると思う。

(「日本の近代史の百年」というパースペクティブを開くための装置として、「羊」と「北海道」を持ってくるのはとても鋭い目のつけ所だとは思う。しかし、それを十分に活かし、展開させることはできていないと思う。)

小説の大半が、《僕》の停滞と喪失で埋められ、そこにスケールばかりがやたらとデカい「近代百年」が挿入・接合される。その内実として、死にかけた右翼の大物(先生)と失墜した国家官僚(羊博士)の来歴があり、アイヌの青年に率いられて荒野を開墾する十二滝村の人々の歴史があるのだが、しかし、それはちょっとした聞き書き的なエピソードとしてさらっと流される程度で、展開も密度も不十分だ(しかし、繰り返しになるが、このアンバランスさそのものこそが面白いとも言えるのだ)。圧倒的に《僕》の停滞と喪失の方が強いし、なぜ、《僕》の私的な停滞と喪失が「近代史の百年」と接合されるのかが、あまりよくわからない。

ここで気がつくのは、この小説では日付というか年次が強調されていることだ。この物語は、1978年(昭和53年)の物語であることが強調される。だからおそらく、主人公《僕》の喪失感と、日本の社会がこの時期に何かを失ったということが重ねられている。ここでぼくは、ポール・トーマス・アンダーソンの映画『インヒアレント・ヴァイス』を思い出す(ピンチョンの原作は読んでいない)。この映画でも、ヒッピー的なものの終焉(敗北)と、資本主義的システムの全面化の時代が、ある種の喪失感と共に戯画的に描かれていた。村上春樹は、高度消費社会の始まりである80年代初頭に、それによって決定的に失われた「明治以来の近代百年」への追悼のような物語を書いたのだと思われる。

だから、村上春樹の小説に特徴的な喪失感と、それに伴う感傷は、一般的な(あるいは、私的な)喪失感と感傷ではなく、あくまでこの時期の日本社会と結びついた喪失感と感傷なのだろう(それはこの作品に限らず、『風の歌を聴け』も『1973年のピンボール』もおそらくそうなのだ)。ただし、その関連が必ずしも明確ではなく、ぼんやりした感じの書き方になってしまったことで、一般的(私的)な喪失感と感傷だと勘違いされ、むしろその勘違いによって大衆的な人気と大きな影響力を得ることになったのではないか、と思った。

(おそらく村上春樹が個人的に感じている「70年代への追悼」の感情を「日本近代史」と結び付けようとして、あまりうまくいかなかったという感じなのだと思う。ただしつこいようだが、そのアンバランスがこの小説なのだと思う。)

この作品では十分には展開しきれなかったことを、改めて全面展開しようとしたのが、おそらく『ねじまき鳥クロニクル』なのだと思われる。

⚫︎追記。羊男は、なんでこんなところに住んでいるのかと《僕》に聞かれ、「戦争に行きたくないから」と答えている。1978年の話だとすると敗戦からまだ33年だから、仮に20歳前後で兵役を逃れるために山に逃げたとしても五十歳代で、(追記・30年以上にわたって戦争が終わったことを知らないまま山で孤独に生活するということは)十分にリアルな話だ。実際にそういう人もいたのではないか。