国立新美術館でやっている「イメージの力」展に関連するシンポジウムで「アートと人類学:いまアートの普遍性を問う」というのをやるみたいで、そのモデレーターが『現実批判の人類学』の編者の春日春樹で、発表者のなかにはその本に「世界を制作=認識する――ブルーノ・ラトゥール×アルフレッド・ジェル」というテキストを載せている久保明教とかがいたりするのだけど、アクターネットワーク論やジェルのネクサス理論などに関連する話とかが聞けるのだろうか。
ラトゥールやジェルに限らず、デ・カストロやストラザーンといったあたらしい人類学の流れには興味があるのだけど、「日本語」という環境だと、なかなかそれにアクセスできない(デ・カストロは「現代思想」に二つくらい翻訳が載っているけど)。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/power_of_images/index.html
●『BEATLESS』を半分くらいまで読んだ。物語の大枠は「ローゼンメイデン」みたいな感じになっている。コンセプトというか、問題意識のようなものはとても面白いのだけど、小説としては、ぼくにはちょっと退屈に感じられてしまう。コンセプト、物語、キャラ、世界観といったものを、どのようなバランスで配置するのかという時、SF小説に対しては、物語やキャラをある程度犠牲にしても、コンセプトや世界観の方につっこんでいって欲しいという風にどうしても期待してしまうのだけど、なかなかそうもいかない事情もあるのだろうなあ、などと思ってしまう。
とはいえ、ぼくは長い小説を読む時は必ず一度は中弛みというか、倦んだような状態に陥るので(そのような状態になることも長い小説を読むという経験に含まれる重要な一部で、そうならずに一気に読めてしまうようなものは逆に信用出来ないのかもしれない)、最後まで読んだときにどう感じるのかは、勿論まだ分からない。
●『スペース☆ダンディ』は、待ちに待った円城塔脚本の回だったのだが、それくらいではこの作品の「安定したつまらなさ」は揺らぐことはなく、「いかにも円城塔が書きそうな話」という以上のものはなかった。演出がこの物語を読めていないとも思った。ただ、この作品がはじまった時にぼくが期待していたのはこういうテイストだったのだなあということを思い出しはした。でも僕の期待は間違っていて、この作品は別にSFではなく、たんに宇宙を舞台にした特に目新しいところのない(別に野心的でもなんでもない)パロディ風のコメディだった。やたら豪華なアーティスト陣とか、脚本に円城塔が加わるとか、そういう事前情報に目が眩まされて、何か野心的な試みがはじまるのではないかと勝手に期待してしまったので、過剰に失望した(野心的な試みが空回りした、のではなく、はじめから野心などなかったのか…、と)、ということだろう。
ただ、今、ぼくのiPodでは「ビバナミダ」と「Me-ime」の再生回数がすごく多くて、この作品のおかげで岡村靖幸再発見という感じになった。