Bunkamuraの「だまし絵」展は、意外にも面白かった。展覧会としては「寄せ集め」でしかないけど、しかし、寄せ集めだからこそ、それぞれの作品がコンセプトによる上位からの縛りがゆるい状態のままでいられる。
(例えば、ダリの絵画を「良い」と思ったのははじめてだったが、この判断は「だまし絵」展のコンセプトと何の関係もない。)
この展覧会で「だまし絵」とされるものにはおそらく二つの方向がある。まず、虚と実との価値逆転であり、これは観測者の依って立つ位置の移動(世界の基底の変化)を促すものだろう。
もう一つは、主観的なもの(わたしにとって「そう見えるもの」)をつくりだす客観的技術を示す、という方向。これは、まず、何故このように「不思議な見え方」をするのかという問いがあり、その後に、その「仕掛け」はこうだ、という答えがある、という二層構造になる。とはいえ、「答え(客観)」が与えられたからといって、「問い(主観)」における不思議さの感覚が消えるわけではない。むしろ、客観的な「答え(仕掛け)」が、主観的な「問い(不思議さ・感覚)」の「答え(解決)」にはなっていないという事実こそが浮上する。だがそこには、「答え」にはなっていないのにもかかわらず、客観(≒技術)は主観(感覚)をコントロールできてしまうのだという、「恐怖」あるいは「不安」の感情も貼りついている。
(「客観」と「技術」とが「=」ではなく「≒」で結ばれるのは、技術は客観というよりむしろ、客観と主観との媒介となるものだからだ。一方に、閉じた自律システム=主観があり、他方に、相互作用する開かれたシステム=客観があり、そのふたつを媒介する「再帰する何か」としての「技術」がある。閉じた自律システムは、相互作用する開かれたシステムに内在=従属するように見える。しかしそもそも、相互作用する開かれたシステムが「存在する」ということを言うためには、閉じた自律システム(≒心)によって観測され、記述されなければならない。そしてその観測には、観測機器などの技術的媒介が必要であり、さらに、記述のための言語という媒介も必要になる。媒介としての観測技術、記述言語の変化は、客観と主観の両者を対変化させる。)
●『スペース・ダンディ』の11話は、めずらしくSFになっていて、そうそう、これがぼくが期待していた「スペース・ダンディ」なんだよ、と思った。やっときたか、と思った。終わって、クレジットに脚本が円城塔と書いてあって、ああ、なるほどと思った。『スペース・ダンディ』でSFをやろうとしているのは、円城塔だけなのかも、とも思った。