●作品の再帰性を記述する観測者の二つの位置がある。一つは、再帰性を社会的関係性-慣習の発生や持続、変化によって規定する外的な視点。もう一つは、再帰性を感覚-経験の反復性(それ自身の内にズレを含んだ反復性)を根拠として記述する内的な視点。この二つの視点からの記述は、どちらも可能(有効)だが、「ある記述」は、どちらか一方でなければならない。壺にも横顔にも見える図のように、どちらとして見ることも可能だが、どちらか一方としてしか見ることができない。あるいは、一方の観点からの記述によって、他方の観点を完全に呑み込んでしまうこともできない。
(とはいえ、一方からもう一方へと「移動する」ことはできる。というか、われわれは常にこの両者を移動することで、いわば「二枚舌」を適宜、融通をつけて使い分けることで、世界との関係を調整している。)
●だが、一つのものごとに二つの見方があるというのでは、おそらくない。ある作品(あるいは、「作品」という限定はいらなくて、ただ、ある「再帰性」というべきかもしれない、「再帰性」とは「この世界(+このわたし)の再帰性」であり、この世界(+このわたし)が、他のようにではなく、このようにあり、認識する度に繰り返し――変化を内包しつつも――このようにありつづけること、のことだといえる)が成立する「その時」ごとに、この、内的、外的という二つの側面が対出現して分離するのだと考えられる。再帰性の出現(あるいは消滅、変化)という出来事がまずあり、それが二つの方向(異なる観測者の位置)へと事後的に分化してゆく、と考えられる。
(三人称と一人称との分離がそこからはじまる、根元的な二人称的な場があり、そのような場において行為することが「制作-実践」だ、ということもできる。)
●しかし、二つの観測位置へのこの分化は、いったん起こってしまえば、フラットではない階層構造をつくってしまう。つまり、外的-社会的視点が上位にあり、下位にある内的-感覚的視点を規定し、制御している、という風にしか見えなくなる。だが、そう考えると、下位のシステム(わたし)に可能なことは、上位への従属、最適化か、さもなければ抵抗や攪乱くらいしかなくなってしまう。
(しかし、最適化か抵抗か、という物語はまったく退屈だ。)
●とはいえ、そのようなことを「言う」のはたやすいが、では、「わたし」は「どうしたらよいのか」は、まったくよく分からない。「わたし」は五里霧中のなにある。
例えば郡司ペギオ-幸夫は、「受動的能動」と「能動的受動」の交錯によって「群れとしての意識」が創発されるメカニズムを記述する(『群れは意識をもつ』)。それによって、ある外的に付与される状況が一方にあり、もう一方に、相互に相手の出方が予測できない閉じた自律システム(わたし)たちが複数いるという風に、観測者の位置が二つに分岐する時に、そのどちらにも属さない「群れの意識」(この日記の文脈では慣習と経験とが交錯させる「再帰性」の位置にあるものといえよう)の存在を示そうとする。
ただ、この記述自体は、あくまで外的な観点からなされている(だから、再帰性が事前にあるのではなく、事後的に生まれるという形の記述となる)。ゆえに、非常に刺激的で魅力的な記述であるが、「わたし」は「どうすればよいか」という風に内的に考える時の参考にはあまりならない(というか、もともとそういうことを問うているものではない)。
そうはいっても、「考えるべきなにものか」は、このような場所にしかないことは明らかであるように思われる。
●では、「わたし」は「どうすればいいのか」。西川アサキ「階層と浸透の間で」(『基礎情報学のヴァイアビリティ』所収)は、まさにそのような問いの追求として書かれているように読めた。まず、経験(個物)によって慣習(メディア)を変化させ得るものが「傑作」である、ということが言われる。
《引いた視点で現象をみれば、「傑作」とは、ある小さなシステム(典型的にはある心的システム=作者)の内的揺らぎが、マクロレベルまで拡大してしまうことだろう。それが空間的で、時間的に短いなら「ブーム」(あるいは先の例では「炎上」)だろうし、時間的に長く空間的に小さいなら(マニアに受け継がれるような)「古典」的作品だろう。(…)下位システムでの揺らぎ(個物=トークンと呼ぼう)が、上位レベルでの共通項=メディア(類型、あるいはタイプ)にまで拡大してしまうことが「傑作」の特徴ともいえる。ここには、階層の破れ、発想(=個物)のメディア化(=類型化)がある。》
「階層性の破れ」「発想のメディア化」が、この日記の文脈では「再帰性の生成」に相当する。そしてそこから、第三世代システム論(オートポイエーシス以降のシステム論)が、ビジネスの現場などでも「使えるのか否か」という問いとともに「面白い(新しい)発想を得るための具体的な方法」について工学的に考察するという方向へ進んで行く。(「個物」としての)発想を得るための方法と、その妥当性(「メディア」になり得る可能性をもつか)を判定する「面白さの篩」とのペアを問題にするこのテキストは、つまり「わたしはどうすればよいのか」という方向からの問いがたてられていると言える。
●だが、そのような考察があった上で、テキストの最後に、テキスト自身への批判的自己言及のようにして、「イノベーション(新しさ)を必要としないでいるために必要な、新しい技法(イノベーション)は可能か」(かなり意訳)というような問いが出てくる。つまり、「傑作」を指向しないような「わたし」の「行き方=生き方」はあり得るのか、と。
《「瞑想、イノベーション、日常」ではないもの=Xはありうるのか? この否定的定義Xには「内容」がない。
否定的なものへの風当たりは強い。ドゥルーズは肯定的定義を否定に対し賛美した。哲学ではなくとも、「アイデアよりも、その実現にはるかに価値がある」というような考えはその一種だろう。もちろん、第三世代システム論に実効性を求めるこの論考自体が、半ばその流れに身を浸さざるをえない。だが、「否定」を再評価できないだろうか?
未知のものを命名し、操作対象にしてしまう「否定=未知数」という方法論は、未知Xを、無内容なまま、それが満たすべき条件から追いつめてゆく操作=方程式を解く過程として、さまざまな発見を導いた。その結果、Xが決まる場合もあれば、存在しないことが分かるかもしれない(=発見=イノベーション)。
しかし、本節で問われているのは、その操作方法(イノベーション)自体の否定を発見(イノベーション)することともいえる。それは「新しさ」への執着を絶つ「新しい」仏教のようなものだろうか? 解はないかもしれない。》
●「新しさ」への執着を絶つ「新しい」仏教……。これが「いわゆる」否定神学と異なるのは、解はないかもしれないが、あるかもしれない、という点だろう。計算可能性理論の停止問題のように、解が「ある」のか「ない」のかを知る方法は、実際にプログラムを実行してみる以外にはない。