●『基礎情報学のヴァイアビリティ』がとても面白かったので、『基礎情報学』(西垣通)を読みはじめた。第一章を読んだ。
ここでは、「情報」が、(外に存在して、生物がそれを取り入れるというようなものとしてではなく)生物という閉じたシステムの内部に生じる「自己言及的変容」として捉えられている。
《(…)生命システムとはいったい何か? ―――通常の機械システムとの大きな相違は、第一にその「歴史性」である。あらゆる生命は、約四〇億年にわたる進化という膨大な歴史、また個体として誕生して以来の体験史を負っている。したがって、ある入力に対して、生命システムは常に同一の出力を与えるわけではない。これは情報の意味解釈の多様性に対応している。すなわち生命システムは、種によって、個体によって、また同一の個体でも状況によって、同一の情報を入力してもきわめて多様な出力(反応・行為)を示す。》
《この歴史性との関連で、生命システムを機械システムから区別する第二の特徴である「閉鎖性」が浮かび上がる。生命システムの出力は予測をこえると述べたが、実は生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力もないと言ったほうが精確なのである。入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳もわからず行為しつづけるのみなのである。さらに、自らの内部と外部(環境)を区別することも生命システム自体にはできない。外部から与えられる刺激も内部から発生するゆらぎも、その生命システムにとっては同一であり、したがって現実と幻想の区別は存在しない。(…)生命システムを考察する場合は、いったん視点を生命体内部に移す必要がある。》
《生命が情報の意味を解釈するということは、実はオートポイエティックな生命システムが、自らを取り巻く環境からの刺激に対して自己言及的に反応している(行為をし・変容している)ことに他ならない。したがって、情報とは外部から生命システムのなかに「入ってくる何か」ではない。情報を外部に実在するモノのようにとらえるのは誤りである。むしろ刺激に応じて生命システムのなかに「発生する何か」ととらえるほうが精確だろう。》
●このように、「情報」がまず、閉じた自己言及的自律システムの内部に発生してシステム自身を変容させる「意味」として捉えられたのちに、それが《社会的に通用する客観的存在であるかのように錯覚されるメカニズム》が問われなければならない、とされる(外的視点の要請)。オートポイエーシスでは、初期ヴァレラを除き、「観察」よりも「行為」に注目するという傾向があり、しかし行為への着目だけでは、《ヒトの社会における意味の伝達や権力作用の分析》が可能ではないので、内的視点から、外的視点が導かれなければならなくなる。
《(…)生物が自分自身をつくりなおす作用を「意味」と見なすのはあまりに個体(個人)中心主義的すぎるという批判がなされるかもしれない。言語学者社会学者からみると、「意味」とは社会的存在であろう。確かに言語の意味は社会(あるいは言語共同体)のなかで共通のものである。「意味とは複雑性を縮滅するもの」という理論社会学のテーゼも、この延長線上に位置づけられる。基礎情報学はむろんそのような「意味」を無視するわけではない。だが、天下りに意味を社会的存在として定義するのではなく、生物個体に発する「意味」が、いかにして社会的に共通のものとして機能するのか、そのメカニズムを問おうとするのである。そのため、とりあず、原基的な情報ないし意味を、個体に立脚してとらえるのである。》
(ここで「情報」は、「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義される。)。
《(…)「パターン」とは客観的なものなのか、という疑問が提示されるかもしれない。しかしこれは、パターンを(物理的な)実体概念と混同することから生じる誤解である。砂浜の上の風紋は、実はわれわれヒトの知覚から独立に存在しているわけではない(…)すなわち、パターンとは、それを認知する解釈者とのあいだに成立する関係概念なのである。》
《本定義で「パターン」という用語をもちいたのは、それが社会的な共通性や習慣性という面をいっそうはっきりあらわすからである。このことは一見すると、パターンが客観的存在ではなく主観的存在であることと矛盾するようだが、そうではない。本来は主観的存在である情報が、社会的に通用する客観的存在であるかのように錯覚されるメカニズムが問われなくてはならないのである。あるパターン(情報)は、共通に解釈され、それゆえ「伝達」が可能になる。このことが、「われわれの外側にあるもの」「外側から取り入れたもの」という錯覚を生むのである。》
●まず、「情報(意味)」が、入力も出力もないオートポイエティックな生物の「閉じた内部」で生まれるという内的視点から記述され、それが、疑似客観性と言える社会的共同性をもった(とみなすことのできる)外的視点からの記述へと構成され直してゆく必要がある、と。ここには、「情報」を観測する観測者の移動、あるいは転換がある。この「移動」「転換」が記述されるということがとても重要であるように思われる。
例えば、情報の定義に含まれる「パターン」という用語は、実体ではなく「関係概念」であるとされる。しかし、それが解釈者と環境との「あいだ」の関係であると言えるためには、既に外的な視点(疑似客観性)が成立されていなければならない。入力も出力もない内的視点においては、外的刺激と内的ゆらぎの区別はつかず、故に環境と観測者(生物)自身との区別もつかず、関係という概念が成立しない。つまり既にここには、主観的存在を客観的存在であるかのように「錯覚されるメカニズム」が働いている。ということは、「パターン」という用語が、「生物にとっての意味そのもの」から「関係概念」へと変化してゆくことで成立するその過程(「意味そのもの→関係概念」という時の「→」)に、視点の移動、転換(階層性の破れ)がある。
●内的な視点(生物の自己産出的な自己差異化)からだけではなく、外的な視点(上位階層――生物をとりまく諸関係・環境――からの観測・把握・介入・操作)からだけでもなく、両者を媒介しつつ分離させる「階層性の破れ」としての観測者の「位置の転換(の発生)」を含む記述であるというところが、面白いと思う。