●リー・スモーリン『量子宇宙への3つの道』を読んでいた。リー・スモーリンは、(例えばドイッチュのようには)多宇宙論を支持しない。しかしここにあるのは、対立というより相補性であるように思われる。
視点を一つに固定すれば(客観を想定すれば)、宇宙は無数に分岐する(多宇宙論)。つまり存在が複数化する。一方、宇宙を一つだと固定すれば(存在を単数だとすれば)、視点(観測者)の方が無数に分岐する。つまり客観がなくなる。これは納得できる気がする。ここにあらわれているのは、「ある」ということをどう解釈するのか、というか、「ある」ことのどういう側面を重視するのかの違いだと思う。
宇宙を一つだとする場合、観測者は常に、観測者自身を含まないシステムを記述することになる。観測者はシステムの外にいて、それによって視点(観測者)自身が「重ね合わせ」状態になることを防ぐ。そのようにして記述されたシステムAは、観測者Bが記述した、観測者Bを含まない別のシステムBとつきあわされ、さらに異なるシステムC、D、E…がつき合わされ、それらの整合性によって正しさが測られることになる。どのような視点も限定的である(「すべて」ではない――客観ではない)が、そのあらゆる視点のすべてが「整合的である(≒変換可能である?)」ことによって、宇宙が「一つである」ことが帰結される、と。
≪これらの理論のすべてに、同じ宇宙についての量子記述が多数ある。その各々の量子記述は、宇宙を二つの部分に分割する仕方に依存する。一方が観測者を含みもう一方が観測者が記述したいものを含むように分けると、宇宙のそれぞれの部分の量子記述が得られる。各々は特定の観測者が見るものを記述する。これらの記述はすべて異なるが、たがいに無矛盾でなければならない。これは一つの量子記述をある一人の観点から導かれたものとすることで、重ね合わせのパラドックスを解消する。量子記述はつねに外部に留まっている観測者によってなされる、宇宙のいずれかの部分の記述である。このような記述はどれも状態の重ね合わせになりうる。もし私を含めたシステムを観測していれば、私が状態の重ね合わせにいるのを見るだろう。しかし、私は自分自身をこのような言葉では記述しない。なぜなら、この種の理論では観測者は決して自分自身を記述しないからである。≫
≪多くの研究者が、これは正しい方向に向かう確定的な一歩だと信じている。量子宇宙論の一つの解答のなかで、多数の宇宙――多数の実在するもの――の存在について形而上学的言明を理解しようと試みる代わりに、われわれは量子宇宙論の一つの多元版を構成するが、そこには一つの宇宙しかないのだ。しかし、その宇宙には多数の異なる数学的記述があり、その各々は異なる観測者が周りを見回したときに見るものに対応する。どの観測者にも全宇宙が見えないので、いずれも不完全である。しかし二人の観測者が同じ問いを立てたとき、彼らの答えは一致しなければならない。≫
●どうでもいい話だが、ぼくは小学生の時、パラドックスと言う言葉を間違えてバラドラックスと憶えてしまい(カタカナを読み間違えたのだと思う)、以来、パラドックスという言葉を書いたり言ったりするとき、同時に頭のなかにバラドラックスという音が浮かぶ。パラドックスよりバラドラックスの方が音楽的に美しいように思う。
●今更だけど、「ハルヒ」シリーズを全部読んでみようかという気になって、とりあえず最後のエピソードとなる『涼宮ハルヒの分裂』、『涼宮ハルヒの驚愕(前・後)』を読んだ。話としてはとても面白いのだけど、ラノベ特有の、説明と言い訳と繰り返しの多い冗長な文章にはちょっとまいってしまって、やはりアニメで観る方がいいのかと、はやくも「全部読む」計画は限りなく挫折に近い感じになる。そのかわりに、谷川流のハルヒ−キョン・フォーマットとは別の作品を読んでみたいという気になった。