●お知らせ。「すばる」五月号に、『ギッちょん』(山下澄人)の書評を書きました。この本に収録されている「トゥンブクトゥ」は、最近読んだ小説ではもっとも驚かされ、そして「やられた」と思わされました。
●来月で引っ越して一年になる。二十年以上住んだ八王子の感覚が、少なくとも意識の表面ではだんだん希薄になってきている。新宿から帰ろうとするときに、間違って中央線の方へ歩いていたりすることもなくなった。頭のなかにある中央線のイメージの濃度よりも、東海道線のイメージの濃度の方が濃くなってきているということだろうと思う。
でもまだ、自分が撮った写真を観る時に、引っ越す前に撮った風景と引っ越した後に撮った風景とで、どちらが「今いる位置」から近いのかはよく分からない(写真はほとんど近所でしか撮らない)。というか、どちらも等距離で、どちらもすぐ近くだと感じる。どちらも同じくらいの距離感(親しさ)としてある。八王子で何度も写真に撮った地蔵が、これから買い物に行くスーパーまでの道の途中にあって、実際、昨日も一昨日もぼくはそれを見ている、という感じになる。その一方で、これから外に出た時に広がっているのは、道が入り組んで高低差のある八王子の風景ではなく、平らな地面がのっぺり広がった風景であるという感覚も無意識の前提としてある。それらは、改めて意識化されない限り、矛盾なく共存する。
ここで、今いる位置とは、抽象的な「いま、ここ」のことだ。具体的な、いつ、どこ、ではなく、無数の、いつか、どこか、たちのなかの「ここ」を指し示す、座標上の点や矢印のような「いま、ここ」。いつでなもく、どこでもない、起点としての、いま、ここから、どのくらいの距離感があるかということ。
●それとは別に、勾配を体が強く欲していることを感じている。平らな道をいくら歩いていても満たされない何かがある。ビタミンを体が欲するように、カフェインを脳が欲するように、ぼくの感覚は軸の傾きや重力を感じることを欲している。
坂道は、見るものではなく、上ったり下ったりするものだ。その時におそらく、重力とそれを表現する微妙な軸の傾きの変化を味わっている。それはほとんどの場合意識化されないが、重力との関係こそが、人間が世界に対してもつ最も基本的で重要な関係性なのではないかという思いが、日々強くなっている。