●『404 Not Found』(法条遥)を読んだ。法条遥という人はやはり面白いと思ったのと同時に、でもこれは作品としては『バイロケーション』や『リライト』と比べるとかなり落ちると言わざるを得ない感じもした。逆に言えば、出来の悪い作品なのに、なぜか面白いのだ、とも言えるけど。以下はネタバレあり。
●例えば、どれもみな嫌な話なのだけど、『バイロケーション』や『リライト』の「嫌さ」は、扱う主題や作家の資質などとの絡み合いから自然に(必然的に)出てきた「嫌さ」であるように思うのだけど、この小説の嫌さは、偽悪的というか、嫌な話にしてやろうという意図が先に立っている感じがして、その分「嫌さ」が浅いように思う。この程度の「嫌さ」は、それこそ中学生が頭で想像できる程度の嫌さでしかないように思う(いかにも十代くらいのひねた文学好きが好みそう、という意味でもある)。むしろ、この主題から必然的に出てくるであろう本格的な嫌さから目を背けている感じすらする。そしてこの「嫌さ」の浅さが、最終的な着地点が他の二作に比べていまひとつ面白くないところに繋がっているように思う。
そして、三作のどれも世界の脱中心化とでもいうべき事態が描かれているのだけど、この作品ではそれも中途半端だと思った。『バイロケーション』では、「わたし」が自分と区別のつかない「もう一人のわたし」へとズレ混んでゆくのだし(自分が「わたし」なのか「もう一人のわたし」なのか、わたし自身にも分からないという点が重要だ)、『リライト』では「わたしだけの物語」であるはずのものが、四十人に反復的に演じられる(原理的には、その四十のすべてに等しく、唯一の「わたしだけの物語」であり得る権利がある、故に物語最後の逆転がありえる)。どちらも唯一の中心(オリジナル−わたし)という概念そのものの不可能性が露わになる。対して『404 Not Found』では、中心がたんに「わたし」から「あいつ」へと移動するだけで(わたしが中心の位置から外されるだけで)、中心という概念は生き残る。世界が何度書き換えられようと、中心は変わらないし、中心があることそのものもかわらない(設定1のギャルゲが、途中で設定2のエロゲに移行しただけ、のようにも読めてしまう)。いや、確かに最後の「わたし」は消失するのだけど、その消失の仕方がちょっと面白くない感じ。
●世界とは絶対的に外から与えられたもので、すべての人がそれについてほとんど何も知らないままその内部に放り込まれ、そこで生きることを強いられ、それについて何も知らないままで死んでゆく。世界の内部にいる者は、先行する他者からの学習や、観察と推論と検証などにによって、世界のあり様やその法則を探り出すことは出来るのだが、法則を変えることはできない。例えば物理法則は世界の基本設定であって、それを学習したり利用したりすることは出来ても、望むように書き換えることは出来ない。この点については、この小説の主人公が属しているゲーム内世界も、我々が住んでいるこのリアルな宇宙も、基本的には何もかわらない。
主人公はまず、混沌とも言える理不尽な世界に放り込まれ、独力でそこから法則性を見つけ出し、それをもとにしてあり得る世界像を組み立ててゆく。それを強いるものは、世界の絶対性(それをただ受け入れるしかないということ)と同時に、世界の不安定性(予測不能性)だろう。そこ(混沌)に何らかの法則性を発見できれば、すこしはほっと息をつくことが出来る。だがその時も、主人公は自分だけが「世界の書き換え前の(ループする世界の)記憶」を持っているので、記憶−主観−世界像を他者と共有できないから、世界の探求は独力で行うしかない。主人公は、ループ前の記憶によって世界へのメタレベルの視点を得たとも言えるが、それを経験するのは結局「自分だけ」なので、その時点で彼は他者たちの主観(他人たちによって生きられている世界の様子)から逸脱してしまい、そこに参加できなくなる。メタ視点による経験は「わたしの主観」のなかにしかないのだ。これによって、世界が主人公の主観のなかに閉じ込められ、世界が主観へと切り詰められる(おそらく、他者たちの世界から脱落しているからこそ、彼の主観には他の人には見えない「空白」が見える)。
わたしの主観が、他者たちの諸主観間の相互参照という厚み(世界の共有された地)から切り離されて孤立化することで、世界が主観化すること。これは、「わたしの主観」が全能化すること(世界がわたしの主観に従うこと)とはまったく逆の出来事だろう。世界が、その都度「わたしの主観」に現れる事柄(切片)だけに切り詰められ、その背景(地平、全体性)が剥奪されるということなのだから。わたしは世界のひろがりを失う。「わたし」はその主観−切片というデータだけを頼りに、独力でそれらをつなぎ合わせてつじつまの合う世界像をつくらなければならなくなる。この作品では、時間のループや、それに伴う世界の複数化そのものが重要なのではなく(それは、この世界がゲームだということで簡単に説明がついてしまう)、時間のループ(の記憶)が世界を主観化してしまうということの方が重要であると思う。すくなくとも中盤過ぎくらいまでの展開では。
このような世界の主観化が、それを読む者に、「わたし(この主観)」もまた、この宇宙のなかに、ある時突然、何も知らされることなくぽつんと存在しはじめ、ぽつんと存在し、また知らぬ間にぽつんと消えてしまうのだという、普段は忘れている、わたしの存在に関する恐怖に近いリアルな感触をもたらす。仮に、この世界(宇宙)はゲームではないのだ断言できるのだとしても、このような恐怖の感触は、ゲーム内存在であるこの小説の登場人物たちと「わたし」とで、なんら変わるものではない。
●このような恐怖を感じる時、「この主観」は既に「わたし」ではなくなっているように思われる。この恐怖は、この宇宙にあらわれては消えるすべての「この主観(視点)」にとっての恐怖なのだとは言えないだろうか。
●世界像の類似としてぱっと思いつくのは『ゼーガペイン』の舞浜サーバで、しかし『404 Not Found』の主人公はそれよりもっと狭く、自由度の少ない状況を強いられている。これは『リライト』における「運命」の作動がもっと強力に(極端に)なったバージョンとも言える。世界の法則の根拠は、この世界の内部にはないという感覚と、世界の底が抜けてしまっているような感触が『ゼーガ…』と法条遥をつないでいる。
あるいは、何度も反復し、書き換えられる世界で、主人公ただ一人だけが(途中で二人に増えるけど)書き換え以前の記憶を持つというのは、どうしても『シュタインズゲート』を思い出させる。「運命」の理不尽さが強く作動しているという意味では、『ゼーガ…』より「シュタゲ」に近い。
さらに、文字通り「世界の中心」である(無自覚な)人物が語り手の傍らにいるという設定は、「ハルヒ」シリーズを思わせる(この小説の主人公は裏返された――ネガティブな――キョンのようだとも言える)。「ハルヒ」シリーズには、時間の反復や世界の分裂を扱う物語の「あり得るネタ−パターン」を使い尽くそうとしている感じがあって、それも法条遥に近い気がする。
ぼくの頭のなかでは、「ハルヒ」、『ゼーガペイン』、『シュタインズゲート』、法条遥の作品、が、個々の作品のあり様や出来不出来を超えて、それぞれの細部同士が、重なり合い、影響し合い、反発し合い、展開やバリエーションや反転形であり合う、というような関係の網の目をつくっているイメージがある。