●お知らせ。発売はもう少し先みたいですが、「早稲田文学」七号の目次が公開されていました。ぼくは「今と未来を担う作家たち」という特集の枠で、「経験(≒わたし)の分配――法条遥『バイロケーション』と『リライト』」という文章を書いています。
http://www.bungaku.net/wasebun/magazine/wasebun7.html
実はこれを書いたのは去年の五月くらいなので(その後、この作家の新作「リビジョン」が発表されたので一部加筆しましたが)、ようやく出るのか、という感じですが。
●必要があって、コミック版『進撃の巨人』を今出ている12巻まで読んだ。アニメを観ただけだと、なんでこんな作品がそんなに流行るのか分からないという感じだったけど、オリジナルはさすがにすごいので、少し納得できた。正気とは思えない切迫感がある。あらゆる登場人物の目つきがヤバい。これはこの絵じゃないと(この絵がないと)成り立たないものだと思った(アシスタントの人とか、この「絵の下手さ」に合わせるのはけっこう大変なのではないか)。ちょっと「漂流教室」を思わせる雰囲気もある。ただ、好きにはなれないことに変わりはないけど。
特に後の方になるにしたがって顕著になるけど、「実はこの人にはこんな秘密(裏の顔)がありました」みたいにして話を展開させてゆくやり方(「実は…」「実は…」「実は…」という風にカードが次々裏返されてゆく)は、「そんなの後からどうとでも言えちゃうじゃん」とも言えるもので、語りのやり方としては稚拙だし、実際、アニメを観た時はそれを強く感じてしまったのだけど、オリジナルは、とにかくインパクトのある場面を描いて、その先は、「実はこのことの分けはこうで…」と後付け的につないで、またとにかくインパクトのある場面をつくってゆくという綱渡り的な感じで、作品がその場その場で(その場しのぎ的に)生まれてゆく感じが生々しく刻まれているから(アニメだとけっこう均されてしまっているけど、原作だと最初の方などは特に手さぐり感――定まっていない感じ――がモロに出ている)、語りの不細工さがそのまま作品の力(あるいは、作品としての固有の形)となっている感じがあった(とはいえ、回想を安易に使いすぎだとは思うけど)。
アニメだと、制作は、原作のお話が既にある程度進んだ後からはじまり、(全体が先に与えられた状態で)「この話」をどう組み立てるのか、という順番(後ろ向きの展開)になるから、「全体としての語り方の形」がどうしても気になってしまうけど、原作は、何もないところに、常にその都度その都度で新しく付け加えられて展開してゆくわけなので(とりあえず、何かやってしまって、理由や辻褄は後から考える、ということができる)、形の整いや繋がりの滑らかさよりも、展開の意外さや場面そのものの面白さが優先される、その感じに必然性がある、ということなのだろう。
(ただ、この物語では、「実は世界(の構造)にはこんな秘密が隠されていました」という話の展開が、主に、「実はこの人にはこんな秘密がありました」という形として、それも「この人は(あんな平気な顔していて)実はこんな嘘をついていました」という形で現れるようになっていて、つまり、世界への不信が主に「他者(の内心)への不信」として現れるようになっていて、それは逆側から言えば、切迫感が「他者へのやましさ・後ろめたさ」として現れるということで、そういう形で登場人物たちを追い詰めているところが、この作品のどうしても好きになれないところなのかなあと思う。「わけが分からないけど、何故か巨人が襲ってくるんだ!」という、この作品の根幹にある不条理なリアリティが、他者の内心がうかがい知れないことへの恐怖のようなものに変換されて、着地してしまう感じになってしまう。世界の構造が、他者への信・不信、あるいは内面(内心)の問題に還元されてしまう状態というのは、あまり良いものだとは思えない。それは、世界の構造や状況に問題がある時に、その矛盾や責任を個人の内面に無理やり負わせてしまっているような感じにもなる。そこに不可避にあらわれる稚拙な実存哲学みたいなのが嫌だということもある。普通の意味での「内面」の成立が困難になるような圧倒的な現実の過酷さが、逆に、過剰な内面偏重へと反転していき、それが極端な決断主義として現れてくる感じとか。その「良くない感じで追い詰められている感」こそがリアルなのかもしれないけど。)