●『ひぐらしのなく頃に』(弐)をDVDで。これは、アニメーション作品として質が低いためなのか、もともとそういうものなのかは分らないが、あまりに単純な世界観と、あまりに貧しい細部が、かえって、この作品独自の嫌な感じをきわだたせているのかもしれない。
前にも書いたけど、この物語はゲームが元になっているためか、(少なくともアニメ版では)主役の男の子を通してしか、男の子の視野でしか、物語世界に触れることが出来ない。つまり作品世界全体が男の子の内面的世界としてしか受け取れない。これはたんに一人称であるというのとは違う。一人称で書かれた小説だからといって、話者=主人公以外の登場人物や世界のすべてが、話者の内面に還元されてしまうという感じをもつわけではないだろう。あるいは、徹底して男の子の欲望に奉仕するように造形された美少女キャラばかり出て来るアニメだとしても、そのキャラクターたちが、作中のたった一人の人物に対して存在する、という感じは受けないだろう。むしろ通常それらのキャラクターは、観客たちに向けで、観客たちのために存在するはずだ。(ラムちゃんは、あたるのために裸に近い格好をしているのではなく、『うる星やつら』の読者=観客のために、その視線に向けて、そんな格好をしているのだ。)しかし『ひぐらしのなく頃に』に出て来る、あまりに類型的で薄っぺらな美少女キャラたちは、あくまで主役の男の子のために、彼の視線の対象としてのみ存在しているかのようだ。(ぼくはゲームをやらないので分らないのだが、ゲームのプレイヤーは、この男の子と完全に同一化してゲーム空間のなかに入り込むのだろうか。)この感じが、この物語世界に独自の閉塞感を生んでいるのかもしれない。この(世界への入り口の)狭さは、ぼくにはかなり息苦しい。
あきれるほど単純な話で、主役の男の子の欲望にとって都合の良い美少女キャラたちがいて、彼にとって都合の良い、やさしく過ごしやすい、のどかで牧歌的な村があり、そこでの楽しい日常生活がある。しかしその世界は、ちょっとした疑問からほころびはじめ、美少女キャラは彼の身勝手な欲望と欺瞞とを告発するように彼への殺意をあらわにし、それと同時に、のどかな村は排他的で狂信的な閉ざされた場所に豹変する。普通サスペンスは、この、一方からもう一方への移行の過程のなかにあり、この移行を引き延ばしつつ、宙づりにされた時間を様々に工夫された細部で埋めてゆくことになるだろう。しかしここでは、一方からもう一方へと、反転するように一気に雪崩れ込む。そして主人公は(追いつめられているので仕方がないという理由で)美少女キャラを殺すことになる。このあまりの急激な反転と、キャラクターの変化と世界の変化とが同調し過ぎていることからみて、そして、細部のあまりの貧しさから考えても、この世界全体が男の子の内面世界でしかなく、つまり、あまりに都合のよい身勝手な欲望を抱えてしまっている「私」がいて、その欲望が罪悪感へと反転し、罪の意識が恐怖という形で他者の方へと投射されるという内面的過程が、きわめて幼稚に形象化されているだけのようにみえる。だがさらに、この男の子が、最終的には(といってもまだ完結してないけど)村人や女の子たちから殺されるのではなく、女の子たちを殺してしまうということを考えれば、身勝手な欲望から罪悪感→恐怖という過程は実は言い訳(正当化)で、本当は最初から美少女キャラたちを「殺したかった」、「切り刻みたかった」ということなんじゃないか、殺戮のイメージこそが欲望されていたのではないか(だからこそ、欲望の反転があんなにも急激に、世界全体が歪む程の強い恐怖となるのではないか)、と感じられてくる。この作品の独自の嫌な感触は、そこからくるのかもしれない。(おそらくこの先は、このような殺戮がいくつかのパターンで反復されるだけだと思われるので、つづきは観なくてもいいと思った。)
●今日の天気06/09/22http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki0922.html