●ためしに、huluに一か月だけ加入してみたのだけど、ラインナップが微妙で、継続するかどうか迷う。海外の連続ドラマをまとめて観たい人にはいいのかもしれないけど、ぼくは観ないし(観れば面白いかもしれないが時間をとられ過ぎる)、映画を観ることを主な目的とするならば、古典がほとんどないし、いわゆるアート系やシネフィル系の映画も弱すぎる。結局、BBCのワールドニュースくらいしか観るものがなかったりする。見放題としても、これで一か月千円だと「お得感」はほとんどない。観たい映画の配信に個別にお金を払ったり、DVDをレンタルしてきたりした方がよい感じがする。ただ、良いところはアニメがすごく充実しているところで、これがなければ継続する意味がないのだけど、ここで迷う。
●で、huluで『少女終末旅行』の一話から五話までを一気に観たのだけど、すばらしかった。ぼくは『宝石の国』にはイマイチのれない派なのだが(とはいえ、まだ一話しか観ていないし、「ユーフォニアム」以来の黒沢ともよの表現力は健在だった)、これはすばらしい。世界に(ほぼ)たった二人だけという設定から、『オンノジ』(施川ユウキ)にも通じる世界であり、同時に裏『進撃の巨人』という側面もある。
で、「この感じ(この世界)」を生みだせるは、日本のアニメやコミックが発明した「美少女キャラ」があってのことなのだと思う。彼女たちは虚構の存在であっても(ハーマン的な意味で)実在的対象なのであり、彼女たちと、その知覚の内に現れる「感覚的対象たち=作品世界」の間に生まれる真率が、「美少女キャラと作品世界の関係」を(感覚的対象として)対象化する第三項としての志向を、つまり「作品を観る我々観客」という実在的対象の知覚を、新たにつくりだす、というわけだ。そして、「『少女終末旅行』を観る志向としてのわたし」という実在的対象は、「それについて書いているわたし」という実在的対象からは既に脱去(退隠)していて、それを霧のように覆う感覚的性質たちの彼方にある、と。
(あるいは、「『少女終末旅行』を観る志向としてのわたし」は、「このわたし」という実在的対象に属する「実在的性質」の一つであるが、ハーマンによれば、実在的対象と実在的性質の結びつきは---「本質」と名つけられながらも---アドホックなものでしかなく、『少女終末旅行』という作品=感覚的対象---外的な対象---を通じて、辛うじて繋がれているにすぎない、という風に解釈する方がいいのかもしれない。)
●何が言いたいのかというと、『少女終末旅行』という作品を観ることで、アニメやコミックによって生み出された(ユニコーンのように)非実在的な「美少女キャラ」というものが、作品、あるいは作品世界というものが表現し得る領野をとても広く押し広げることを可能にした、偉大な発明なのだなあという事実を、改めて認識したということ。