●うーん、下のリンクのテキストに出て来るハーマンの読みはちょっと違うと思うんだけど…。ぼくはニコラ・ブリオーには興味がないので、このテキスト全体の論旨について言う事はなにもないのだけど、ハーマンについて書かれた部分が、ぼくが読んでいる(解釈している)ハーマンとあまりに違うので、それについてちょっと書いてみる。「人新世におけるアート」は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」(沢山遼)。
http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-ryo-sawayama-on-bourriaud/
《しかしながら、オブジェクト志向存在論においては、「関係」こそまっさきに切断されるべきものである。とりわけ近年の実在論者のなかで、関係概念からの脱却の姿勢をもっとも激しく打ち出しているのは、オブジェクト志向存在論を標榜するグレアム・ハーマンの著述である。ハーマンはメイヤスーの相関主義批判を引き受けつつ、従来の哲学において、人間に関係する限りにおいてオブジェクトが肯定されてきたという点を強く批判している。ハーマンはそれに対し、オブジェクトの人間からの切り離しを行う。オブジェクトは個体としてわれわれから自立し、撤退し、引きこもっている。オブジェクトは、人間なしで、人間とは無関係に実在する。さらにハーマンは、オブジェクトは人間と関係しないばかりか、オブジェクト相互も違いに触れ合うことなく孤立しているのであり、宇宙のなかでは、ほかのあらゆるものといっさい関係することのないオブジェクトすら存在するだろうと言う。ハーマンはそれを「眠れるオブジェクト」「夢見るオブジェクト」と呼ぶ。すなわちハーマンにとってオブジェクトとは徹底して隔絶的なものである。オブジェクトは人間なし、関係なしで自らを他から隠退する。これはブリオーが示す、人新世においてはあらゆるオブジェクトが外的存在者との関係に向けて自らを「提示」するという立場と180度異なるものであると言ってよい。ゆえに、ブリオー/ハーマンにとってそれは、美学上の争点となりうる問題である。》
●ハーマンはそんなにオブジェクトの「切断」ばかりを強調しているわけじゃない。むしろ、上方解体によっても、下方解体によっても、解体(還元)できないものがオブジェクトだと言っている感じの方が強いと思うのだけど。
これだと、なんのために「実在的オブジェクト」「実在的性質」「感覚的オブジェクト」「感覚的性質」という四つの対象を出して相互の関係を考えているのか、意味が分からなくなってしまう。ハーマンの主張は決して実在的対象の脱去(退隠)のみを強調するものでなく、オブジェクト(対象)を基本単位として、その四つの局面である四方対象同士のペアの10種類の組み合わせ、その関係・間接的関係・無関係によって、世界のあり様を説明するのが主眼と思われる。人間中心主義的ではないというのは、人間的(生命的)主体「だけ」が感覚する(感覚的オブジェクトを通じて間接的に関係する)というわけではない、物もまた、人間(生命)とはまったく無関係なところで、別の物と、感覚的オブジェクトを通じて間接的に(間接的に「のみ」)関係している、という意味だとぼくは解釈しているのだけど。
ある実在的オブジェクトは、感覚的オブジェクトとの真率な出会いを通じて、別の実在的オブジェクト(の一面であり翻訳でしかないものだとしても)と、間接的、代替的に出会う(何者とも出会わないオブジェクトもありえるとも言っているが、すべてのオブジェクトが何者にも出会わないわけではない)。そして、その「出会い(関係)」そのものが、出会われた両者から脱去(退隠)して、また新たな「実在的オブジェクト」となる。オブジェクトは汲み尽くせない、引きこもっているということと、互いに完全に無関係ということとは違う。感覚的な領域で間接的に関係していて、その関係(相互作用)は実在的な領域も変化させる。ハーマンは『四方対象』で実際に次のように書いている。
《どんな関係も直ちに新しい一つの対象を生みだすものである》(P181)
《私が木を知覚するとき、この感覚的対象と私は、私の心のなかでお互いに出会っているわけではない。理由は単純で、私の心とその対象は志向という働きにおける二つの対等なパートナーであり、それらを統一する項はその双方をともに含んでいなければならないからである。心が部分であると同時に全体であることは不可能である。その代わりに、心とその対象はともにより大きな何かに包括される。すなわち、両者はいずれも、私と実在的な木との関係を通じて形成される対象に内に存在する》(P179〜180)。
●ちなみに、上のリンクのテキストを読むことによって知ることのできる範囲で判断するならば、ニコラ・ブリオーの立場は、ハーマンが「上方解体」といって批判するような態度に近いように思われる。ハーマンは別に上方解体的に「関係」を分析することそのものを批判しているわけじゃなくて、オブジェクトが上方解体によって解体され尽くしてしまうことはない(オブジェクトは、上に解体しても下に還元しても、フラクタル的に入れ子になったまま自律的に存続しつづける)、と言っているので、意見は食い違うが、別に180度違うということでもないと思う。ハーマンは「関係」を完全に否定しているわけではない。ハーマンと上方解体的ないわゆるネットワーク主義(フラットな存在論)との違いは、ハーマンが「実在的オブジェクト(脱去)」と「感覚的オブジェクト(現前)」とを分けているという点であって、「関係」を否定しているという点ではない。だから、そこにあるのは関係主義と非関係主義という対立ではないはず。
●ハーマンが「Art Without Relations」で批判している「関係している状態」とは、アートにおける関係主義やプロセス主義、文脈主義(つまり「上方解体」主義)であって---これはエリー・デューリングが「ロマン主義」として批判しているものとほぼ同じだと思われる---それに対してハーマンは作品(オブジェクト)として、上方解体的なネットワークや文脈から自律した「芸術の内容を超えた深さ」を評価すべきだと主張しているように読める。
このテキストでハーマンは、リテラリズム(関係性)と演劇性(非関係性)との両者をまとめて批判するフリード(「芸術と客体性」)に対し、リテラル性への批判は妥当だとしながら、それが演劇性への個人的な反感とないまぜになってしまっていると書いている。
(英語力に自信がなく、人の訳に頼っているのがアレなのだけど…。)
《[フリードの否定する]リテラルの呼び名は「関係性」である。なぜなら、両者はモノの諸効果を可能にする隠れた内側のリアリティよりも、モノの外側の諸効果に言及するからだ。同様に、[同じくフリードの否定する]演劇的の別の名前は「非-関係性」である。何故なら、劇場とは観察のための場所ではなく、むしろ、同情や恐怖、演技の為の場所だからだ。その場所で、私達は、描かれている何かを観察するのではない。そうでなく、イラストレーターとしてよりもむしろ、役者としての意味において、ミメーシス(感染)を通じて、描かれたものになるのだ。》
《(…)フリードがリテラリズム無しの芸術を求めたという点においては正しいが、人間を単純化した行為者としてのみとらえたという点において誤っている。芸術作品はどのような仕方で鑑賞者と遭遇したかを超えて、深みをもっていなければならない。しかし、人間は単に鑑賞者であるだけでなく、同時に芸術作品そのものの共働の構成要素なのである。》
《(…)世界の構成要素として、私たちはリテラリストでもなければパラフレーズもしないのだ。なぜなら、ここにおいて、ダイヤモンドやレンガが他の対象を生みだすのと同様に、私たちは社会を、軍隊を、芸術作品を産みだす諸部分だからである。》(上妻世海・訳)
これは、先に『四方対象』から引用した「私」と「木」との関係とパラレルであると思われる。つまり《芸術作品はどのような仕方で鑑賞者と遭遇したかを超えて、深みをもっていなければならない》というのは、「木」は、「私」が木を観ていようといまいと、どんな形で観られようと、実在的オブジェクトそれ自身として「(魅惑を放射する)深み」をもってありつづけるように、芸術作品もそうでなければならないということだろう。そして、《人間は単に鑑賞者であるだけでなく、同時に芸術作品そのものの共働の構成要素なのである》というのは、「実在的な私」が、「感覚的な木」に魅了され、それと真率に向き合う時、(感覚的な木を介してなされる)「実在的な私」と「実在的な木」との間接的・部分的・翻訳的な関係が生まれ、両者の関係が第三項としてのあらたな「オブジェクト」をつくりだす---そしてそれは「木」自身からも「私」自身からも自律し、退隠(脱去)する---ということとパラレルであると読める。
繰り返すが、ここで「非-関係」とは非-上方解体主義のことであり、感覚的な魅惑を媒介とする私(観者)と作品との「関係」は否定されていないどころか、その関係からこそ(自律したオブジェクトとしての「作品自身」「私自身」とは別の)あらたな「オブジェクト(=独自の深さをもつ芸術作品)」が創発される、と言っているように読める。その時、「私(観者)」もまた芸術作品(オブジェクト)を構成する要素の一部であり、「私(観者)」は演劇における《役者としての意味において、ミメーシス(感染)を通じて、描かれたものになるのだ》、と。関係性の美学と異なるのは、ここで観者自身もその構成要素であるあらたな関係=オブジェクトを創発させるものが、あくまでそれ自身で自律した作品=オブジェクトのもつ「深さ(そこから放出される魅惑)」である、という点だろうと思う(プロセスとかコンセプトとかたんなるアーカイブではなく)。
(ハーマンは、軍隊もEUも中国政府も「オブジェクト」だと言っている。これらあきらかに「多」からなるものがたんなる「関係」と異なって「オブジェクト」と言えるのは、そこにある種の同一性---上方にも解体されず下方にも還元されない脱去する「一」性---が一定期間持続してあると言えるからだ。)
ハーマンのこのような立場は、沢山遼がハーマンについて書くような《人間なし、関係なしの美学》というのとは、かなり違うようにぼくには思われる。