●フリード的な「没入」も、ハーマン的な「脱去」も、既にその内に関係を宿している。
(たとえ、あらゆる関係から脱去したオブジェクトがあったとしても、あらゆるオブジェクトが下方解体可能であるとすれば、どんなに隔絶されたオブジェクトでもその内---その下層---に関係を有するしかない。)
純粋な単体が存在しないとすれば、非関係は、その内に既に関係を宿す。非関係(オブジェクトの脱去)のためには、その前提として関係が必要となる。
●記号過程が、記号・対象・解釈項の三項で成り立つとすれば、記号(と対照との関係)は解釈項に依存することで成り立っていることになる。
解釈項は「他者」であると言っただけでは足りない。それは「他者の《わたし》」である。わたしが「わたし」であるのと同様に、他者も「わたし」でなければ記号は成り立たない。他者もわたしと同様に「わたし」であるが、わたしの「わたし」と他者の「わたし」は切り離されている。他者は、「わたし」であるが、わたしではない。
●以下、日高敏隆・観世寿夫の対談(「なりいる」)から、日高敏隆の発言。
《あるチョウは、鳥に食べられたとき鳥がすぐ吐き出してしまうほどまずいんだそうです。そのチョウを食べた鳥は、もうそれっきりそのチョウを食べない。面白いことに、このチョウはそのことを知っているかのように悠然と飛ぶ習性があるんです。ところが世の中ってのはよくしたもので、このチョウをそっくりまねた蝶がいるんです。外見はほとんどまったく同じなんですが、このチョウは鳥にとってまずくない。面白いのはこのチョウの飛び方で、同じ仲間の本性からいえば、ひじょうにすばやく飛ぶはずのチョウなんですが、ふだんは飛び方までまずいチョウをそっくりまねして、悠然と飛ぶんですね。ところがそいつをつかまえようとして捕虫網を振って、とり逃がしたりすると、たちまちにして本性をあらわし、いきなりすごいスピードで逃げはじめるのです。本当にまずい方のチョウは、何度そんな目にあっても、決してあわてふためいたりせず、あいかわらず悠然と飛んでいるんですね。どうもこの場合にも、まねしたほうのチョウは、自分が他人のまねをしている、ほかのものになっているんだということを知っていることになりますね。そこが不思議なんです。》
ここでチョウは、鳥(の「わたし」)に対して、他のチョウのマネをしている。つまり、チョウの擬態(存在のあり様)は、捕食者である鳥の「わたし」に依存している。しかしおそらく、チョウの「わたし」はそのことを知らない(チョウの存在は、それを知っているとしても)。
●パフォーミングアーツの特徴は、それが場に依存し、観客の存在に依存しているという点にある。だから、パフォーミングアーツを完璧に3Dで記録したとしても、その再生を後から観る者は、パフォーマンスそのものではなく、その記録を「外から」観ていることになる。
(チョウと鳥との関係を語る日高敏隆が、チョウと鳥との関係の外からそれを観察しているように。)
しかし、パフォーマンスの場にいる観客は、その場を通じてパフォーマーと相互作用しつつも、同時に、それをもうひとまわり外から観ている。パフォーマー・観客関係(その場そのもの)は、それをその場で経験している観客の「わたし」から脱去し、それによって「作品」として対象化される。
(グールドがコンサートを嫌ったのは、自分の演奏が観客のコンディション(場の状態)に依存することを嫌ったためであろう(場の共有の拒否)。しかし、観客を排除してスタジオにこもったとしても、その先にレコードの聴衆がいることに変わりはない。逆に言えば、「レコードの聴衆」の存在が、スタジオにこもることを可能にしている。スタジオにこもることは、「レコードの聴衆」という聴衆のあり様に依存している。)
●わたしの存在は、他者の「わたし」に依存している。あるいは、わたしと他者の「わたし」との関係を前提としている。わたしの「わたし」は、わたしと他者の「わたし」との関係のなかに埋め込まれている。にもかかわらず、わたしの「わたし」は、他者の「わたし」と切り離されている。
(ここでは、最初の節からレベルが一つ上がっている。他者たちから脱去した「わたし」が既に関係としてある、というだけでなく、脱去したわたしの「わたし」が、わたしと他者の「わたし」の関係のうちにある、ということになる。わたしの「わたし」は、わたしと他者の「わたし」の関係のなかに埋め込まれていながらも、その関係から脱去している。)