2023/03/01

●昨日の日記で引用した、「Quid?」(樫村晴香)による『わたしは真悟』の分析はいわば、「わたし」が「わたしの位置」に「わたし」を発見することの「遠さ」についての記述だとも言える。この、自己に対する自己の遠さは、2月19日の日記で、ハーマンについて書いたときの、「わたし」が「わたし自身」から脱去しており、「わたし」の「わたし(の内的経験)」に対する距離は、「わたし」の「他者」や「モノ」に対する距離よりも遠くにあり、何歩も迂回しているという感覚にも通じる。

そしてぼくが「幽体離脱」に対して関心を持つのは、おそらくこのことと繋がっている。

幽体離脱には二種類の動因があると考えられ、一つは、多形倒錯的・輪廻的・メタモルフォーゼ的な動きの中で現れる幽体離脱で、もう一つが、「わたし」の「わたし」に対する距離の遠さの中で現れる幽体離脱だ。

というか、この異なる二つの力の引っ張り合いの中で、それぞれ個別の質をもつ幽体離脱的な何かが立ち上がる、のではないか。

(だから、「人類最後の贈与」に書かれる、「声に導かれる者」ではなく「声」そのものとして存在し、常に「最も前」にあり、《意識/思考は別の思考に躊躇なく自らを明け渡》し、故に未来を持たないオイディープスは、幽体離脱とは無縁の存在ということになるだろう。)

(幽体離脱とはつまり、《すべてがここの意識にあり、その意識はもはや誰のものでもなく、疑念はなく懐疑もなく、意識/思考は別の思考に躊躇なく自らを明け渡す。そういった最後の局面》へと至る、その一歩手前の状態とも言えるのかもしれない。それは、人間が人間であることに踏みとどまる、その最後の局面ということになるのか? )