2023/03/10

●『おろち』(楳図かずお高橋洋・鶴田法男)。ここには複数の鏡像的な関係がある。母と娘、姉妹、そしておろちと佳子。鏡像的関係において、他者は「わたし」であり、「わたし」の像であり、「わたし」の表現である。それは、他者の位置に「わたし」を見出すということだろう。しかし、ここでは、そこからもう一歩踏み込んで、他者と「わたし」の位置の交換が起こる。「わたし」が他者の位置に立つ(他者が「わたし」の位置に立つ)。

どちらも、「わたし」の外に「わたし」を見出すことなのだが、鏡像関係と幽体離脱とは異なる。鏡像関係において見出される他者=わたしは、「わたし」の模造であり「わたし」の表現であるが、幽体離脱において見出される他者=わたしは、「わたし」の位置である。他者が「わたし」の姿、「わたし」の内実、「わたし」の未来や過去を表現するのではなく、わたしは「わたし」の位置に他者が立っていることを見出すのであり、他者は「わたし」の位置を奪う。

『おろち』においては、幽体離脱とは逆向きのことが起きている。「姉(他者)」を「妹(わたし)」の位置に無理やりに立たせる。「なぜ姉ではなく、このわたしだけが…」という理不尽を感じた妹が、姉に「なぜ妹ではなくこのわたしだけが…」という理不尽を味わせる。このとき、姉妹はたんなる鏡像関係を越え出て、かけがえのない、唯一の「このわたし」の位置を交換している。姉は妹であり、妹は姉である。このことが、この作品で起きている最も大きな出来事であり、作品の核であろう。

(これは、最も深いコミュニケーションだと言えるが、このコミュニケーションのあまりの深さ・強さが、姉妹二人ともを破綻させる。)

(姉妹における破滅的に深いコミュニケーションに対して、母と義理の娘との関係はあくまで鏡像的な関係にとどまり、故にそのレベルにおいては破綻せず、うまく機能している。)

(つまり、鏡像的な関係のレベルで作動する「呪い」はそれほど深いものではなく、「このわたしの位置」をめぐる「呪い」こそがより深くて破滅的なものであるのだ。)

(1)姉妹における破滅的な強さを持つ「わたし」の位置の交換に対して、(2)すんなりと成立してしまうおろちと佳子との(夢を媒介とした)視点・心の交換があり、(3)完全に拒絶される佳子と姉との物理的な「血」の交換がある。心でもなく、物(身体)でもないものとして「わたしの位置」がある。

(ここでは「わたしの位置」があくまで「一つ」であることにより「交換」が最も深い「呪い」となる。つまり、輪廻・メタモルフォーゼが拒否されているからこその強い「呪い」であろう。)

シャノアール終了というニュース。23年に渡った八王子時代にぼくは常にシャノアールと共にあった。大学に入ってから地元に戻るまでの期間で、最も長く時間を過ごしたのはシャノアールの店内ではないかとさえ思う(西八王子駅北口近くの店と、八王子駅南口の、あゆみブックスの二階の店)。

C-Unitedは10日、運営する『コーヒーハウス・シャノアール』のブランドを今月24日をもって終了すると発表した。これに伴い、最後の店舗「京王八王子店」が同日に閉店となる。

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