●カナダのイヌイットの方々の喉歌。これすごく面白い。永瀬さんのツイッタ―経由で知った。
https://twitter.com/wyrm06/status/993011406608842754
ここで興味深いのは、二人の人が至近距離で向かい合って、からだの揺れなども完全に同期した形でなされるところだろう。音楽の演奏における掛け合いが、このような配置において行われるのは珍しいのではないか。つまり、このコールアンドレスポンスは、二人の人が互いに相手に対する鏡像となって、同化することによって成り立っていると思われる。鏡像的同化は、ユニゾンによってよりも、きわめて緊密なコールアンドレスポンスによっての方が、より強くなされるということだろうか。
しかし同時に、これは、《元々は音楽というより女性達の遊びであり、笑っちゃったり、止まった方が負け》というものだといい、いわばとても高度な「にらめっこ」のようなものであると考えられる。「にらめっこ」もまた、二人の人物が互いに鏡像的な位置を占め合うことで成立するが、その鏡像的同化はどちらか一方の「笑い」によって一瞬にして破られることが前提となっている。しかしこのイヌイットの「喉歌」は、「にらめっこ」よりもより強い鏡像的同化が、より長く持続される。相手を笑わせて鏡像関係を破ることが目的である「にらめっこ」に対して、「喉歌」では、鏡像的同化を「成立させ」「できるだけ維持しつづける」ことそのものが遊戯となっていると考えられる。しかし「同化を維持すること」が遊戯として成立するということは、それが困難であり、ちょっとした食い違いでこの鏡像的な同化が壊れてしまうことが前提となっているということでもある。
鏡像的な同化が、完璧なユニゾンによって成立するのではなく、緊密なコールアンドレスポンスによって成立するということは、この鏡像的同化が、「相手を模倣する」ことによって成立しているのではなく、二人の間に「呼応=鏡」という媒介を生みだすことによって成り立っていることを示していると考えられる。つまり、二人を同化させる第三の魂が「鏡」となり、それぞれが、その鏡=魂の片割れとなることで、二人が同化する。二人は協力して(二人の技巧が協働して)、鏡という第三項を生み出し、それを維持しようとしている。その結果として、二人の間に鏡像的な同化が生まれる。
ここであらわれるのは、「わたしでもなく、あなたでもない」、そして「わたしでもあり、あなたでもある」ような一つの(第三の)魂だと言える。この魂=鏡のありようは、わたしにも決められないし、あなたにも決められず、二人の間に成立する呼応の成否によって決められる。わたしもあなたも、この魂を出来るだけ長く持続させようと努力するが、それがいつ途切れてしまうのかも、わたしやあなたが決めるのではない。
これが成立しているその間、因果は逆転し、第三項としての魂こそが、その部分である二つの片割れを生みだしているということになる。
第三の魂=鏡が途切れてしまえば、遊戯は終わりであり、二人は再び、自らの場所であるそれぞれ別々の魂の場へと戻っていく。二人がもはや、一つの魂の片割れではなく、二つの別の魂へ戻った時、至近距離で相手(他人)と向かい合っていることを確認し、思わず照れ笑いする。