●品川の山本現代で小林耕平「あくび・指南」を観た。
●(1)プレテキストがあり、その(2)テキストから導かれたオブジェクトがあり、そのオブジェクトをめぐる(3)作家と観者との対話というか問答(映像・パフォーマンス)がある。この三つがそろって示される。このような作品のあり様は、この作家の以前の作品と変わらない。
●テキストはオブジェクトの説明ではなく、その前(前提)にあるものだ。しかしテキストからオブジェトへの展開の間には飛躍があるので、オブジェクトからテキストへの遡行は困難だ。そして、オブジェクトを廻る問答も、テキストとオブジェクトの間を埋めるもの(テキストとオブジェクトの関係を説明するもの)というより、むしろテキストとは別の方向へと問いを開くような役割をもつ。
●ギャラリー空間内でのオブジェクトの配置は、それ自体で(プレテキストや問答を介することなく)、オブジェクト同士の連関として成立している。ホームセンターで購入できるような工業的な既成品を意外な形で組み合わせてつくられたオブジェクトと、そこにある多数のオブジェクトの関係性がつくる空間は、ありふれた語彙の意外な組み合わせでつくられる詩のような空間を形作っている。
●しかしギャラリーの壁には、三種類の異なる問答が撮影された映像が同時に投影されている。三つの問答の行われる声は混じり合っており、その音声はまず一つの混沌として体験される。つまり「うるさい」「落ち着かない」感じが空間を支配しており、それは、オブジェクト同士の連関がつくりあげるある程度自律的で詩的なあり様をじっくり観ようとする観者に対してノイズのように働いている。
●ところで、この展示には「あくび・指南」というタイトルが付けられている。落語「あくび指南」には三人の登場人物がいる。それに合わせるように、三つの題目が挙げられ、一つの題目につき二つのプレテキスト(小噺)が示され、つまり、3×2で、6つの小噺がプレテキストになっている。三つの映像(問答)は、挙げられている三つの題目(「相手のルールにのっかる」「わたしが消失する」「人間以外のものを笑わせる」)に対応している。落語「あくび指南」そのものは、6つのプレテキストとは別の、それらを束ねるメタ的プレテキストになっている。
●「あくび指南」には、あくびを指南する師匠、指南される弟子、その様子を見ている第三者という三人の登場人物がいるが、同様に、この展示で示される映像(問答)でも、オブジェクトの見方、使い方を指南する作者(師匠)、その指南を受ける者(弟子)、そしてそれを傍観者のように見ている(状況には最小限しか介入しない)第三者が登場している。さらには、この状況(問答)を撮影しているカメラマンという存在もある。カメラマンは、主にフレームの操作によって、この問答自体が成立する場をつくっている---落語で言えば「高座」そのものか?---と言えるが、第三者は、問答のなかではほとんど影のようにしか存在しない。このような第三者の存在は、この作家の今までの映像(問答)にはあまり登場していなかったように思う。
●映像(問答)には、それぞれ「相手のルールにのっかる」「わたしが消失する」「人間以外のものを笑わせる」という題目が与えられているが、そこで実際に行われている問答は、その題目に必ずしも忠実ではない。それはこの作品の、プレテキスト→オブジェクト→映像(問答)という展開が、かならずしも、映像(問答)→プレテキストという形で円環的に回帰していく(回収されていく)わけではないということを示してもいると思われる。しかし、かといってまったく無関係であるわけでもない(回帰するものがなく、開きっぱなしというわけではない)。
●三つの問答の声は混じり合っているが、とりあえずそのなかから一つを選択して、集中すれば、問答を追うことができる(字幕もある)。問答を聞いて(追って)いくことで、ギャラリーという一つの空間のなかに連続的に配置されているブジェクトたちが、実は、それぞれ三つの題目のどれかに関連している(分類できる)ことが分かる。
つまり、オブジェクトそのものが、空間内でのそれ自体の連関によって形作っている自律的で詩的なネットワークとは別に、問答を聞くことを通して、オブジェクトたちが、三つの題目に対応する三つのカテゴリーに分類され得ることを知り、それにより観者の認識のなかで空間が分節し直される(というか、多重化される)。
●また、映像は、作品が展示されている同じ空間で撮影されており、映像に映された人の言葉や動きをみて、それに対応して自分自身もその空間のなかで動き、オブジェクトの細部や別の角度からの眺めを確かめることができる。映像内空間と展示空間の不思議なインタラクションが成立する。つまり、映像は題目による空間のカテゴリー的再分節だけでなく、映像内の人物たちの動きが、空間内の観者に別の動きを導くという意味でも、観者の空間の分節のあり方を動かす。
●今回の展示では、「あくび指南」というメタ的なプレテキストが強く効いている(とはいえ「あくび」と「指南」とが「・」で分けられていることは見逃せない)。落語「あくび指南」において、「あくび」を巡る師匠と弟子との探求は、その探求とはまったく別の文脈にいる第三者の場によい「あくび」を発生させる。師匠と弟子とが「あくび」を求めているのに対し、第三者は「あくび」を求めていないし、師匠+弟子と第三者との間で文脈(価値)は共有されていない。師匠や弟子にとってその「あくび」がいかによいものであろうと、第三者にとって自分の「あくび」は何の価値ももたない。
(ここで、第三者の「あくび」を、師匠と弟子の問答の退屈さ、無意味さに対する文脈の外からの批評・皮肉ととると、この話はとたんにつまらなくなるだろう。)
とはいえ、第三者に「あくび」をもたらしたのは、師匠と弟子の問答であり、それがなければ第三者の「あくび」はない。よい「あくび」を求める弟子の努力は、(文脈を跨ぎ越えて)自分とは別の場所、自分の属する文脈とは別の文脈によい「あくび」をもたらした。これは、弟子の努力の成果だと言えるが、その成果は弟子のもとには起こらず、別の場所で生じる。弟子は、自分の努力によって生じた「あくび」を、自分で所有することはできない。
希望はあるが、それはわたしのものではない。同様に、「あくび」は生ずるが、それは(そのために努力した)わたしのもとで生ずるのではない。この展覧会で提示される師匠と弟子との問答(映像)は、リテラルな答えや解決を「ここ」において生じさせようとするためのものではなく、かといって、ただ状況を「宙づり」させること、あるいはひたすらに問いを開くことそれ自体を目的とするものでもなく、「ここ」では決して起ることのない「あくび」を、どこかで生じさせようという行為であるように感じられる。
「あくび指南」的な問答はおそらく、ラカン的逆説(わたしは自分がタネではないと知っていますが、ニワトリがそれを知っているでしょうか?)というような皮肉なものは違うと思われる。「人間以外のものを笑わせる」にしても、そこに明確な答えや方法は提示されないが、そのような試み、そのような問答が行われることによって、まったく別の文脈において、「人間以外のものが笑」っているかもしれない。
わたしにはそれを知るよしもないが、どこかで人間以外のものが笑っているかもしれない。というか、わたしが「人間以外のものを笑わせる」と思いつき、それを試みていることそのものが、どこかで人間以外のものが笑っていることの、機会原因的な効果だと考えることもできるのではないか。
そのように考える時、よい「あくび」をわたしのものとするのではなく、わたしというものがそもそも、他者のもとに偶然生じた「あくび」なのではないかと考えることもできる。
●あくび指南において、師匠と弟子は、あくまで自分たちの問題として、真剣に「あくび」を追究しているのであって、第三者に「あくび」させるために、その効果を狙って意図的に退屈で無駄に入り組んだ問答をしているのではない。師匠と弟子による真剣なあくびへの探求が、「ここ」ではない別のどこかに、「あくび」の予感(予兆)のようなものを開くのだと考えられる。だからこそ第三者はとてもよい「あくび」をすることができる。そしてその「あくび」のよさは、(その価値を認めていない)あくびをした当の第三者に独占的に属するものではない。そのあくびは師匠を感嘆させるのだ。
小林耕平の作品は、「あくび」そのものを所有しようとしているのではなく、そのような意味での潜在的な「あくびへの予感」を呼び込み、孕もうとしているように感じられる。