●「モノとディスプレイとの重なり」(水野勝仁)を読んではじめて知ったのだけど、小林椋という人の「盛るとのるソー」という作品が無茶苦茶おもしろい。
「モノとディスプレイとの重なり」第九回
http://themassage.jp/monotodisplay09/
小林椋の作品
http://pocopuu.net/index.html
多摩美の情報デザイン領域修了となっているから、谷口さんの生徒だったのだろうか。
ぼくのなかでこの作品は、「神村・福留・小林」と密接に関係があるように感じられている。「神村・福留・小林」に次元をひとつ足したような感じ。
https://www.youtube.com/watch?v=60wLdaAGpmY
「神村・福留・小林」では、安定した地を持たない多重フレーム間の運動(あるフレームの運動と別のフレームの運動との関係がつくりだす相対的運動)としてあったものが、「盛るとのるソー」では、フレーム内(映像)の運動、フレーム自身(映像を映しだしているディスプレイ)の運動、フレーム外(オブジェクト)の運動という、三つの層の運動がつくりだす相対的運動としてつくられている。そして、フレーム内、フレーム自身、フレーム外のそれぞれの層の運動は、別の層の運動を取り込んだり、模倣したり、比喩したり、因果関係を捏造したりし合っている。
「神村・福留・小林」は映像作品なので、映像としての安定したフレームは存在する。「盛るとのるソー」では、展示空間(現実の三次元空間)の安定性(不動性)がその代わりになっている。つまり、フレーム内(映像)、フレーム自身(ディスプレイ)、フレーム外(オブジェクト)という三層の運動の関係(相対的運動)を成り立たせる地(媒介)として、展示空間という、ひとつ階層が上位のフレーム外(空間)がある。しかし、「盛るとのるソー」では、作品内にカメラが組み込まれているので、地としての空間(フレーム外)もまた、フレーム内に取り込まれていて、一種のウロボロス的な構造になっている。
仮に、この作品をVRによって再現するとして、その時、地となっている展示空間そのものもまた、「だんだん変わる脳トレ動画」のような感じで緩慢に(いつの間にか変わっていた、というように)変化してしまうとしたら、そこにどのような経験が生まれるのだろうかと想像する。
●あるいは、「神村・福留・小林」(二次元)と「盛るとのるソー」(三次元)との関係がつくりだす相対的運動というものを考えられるだろうか。例えば、「盛るとのるソー」が展示されている空間の壁に(できれば、時間差をつくって二面同時くらいに)、「神村・福留・小林」がプロジェクターで(ディスプレイではなく、ここは是非プロジェクターで)投影された空間があったとしたら、そこではどのような経験が得られるのか。