ICCに、「盛るとのるソー」の小林椋のアーティスト・トークを聴きに行き、その後、寺田倉庫の「Asian Art Award」を観た。
●小林椋の最初期の作品は、物と物とをぶつけたり、震わせたりして「音を出す」というサウンドインスタレーションとしいう形式をもち、しかしその「音を出す」という目的をもつにしては、目的に対するそのやり方が遠回りというか、効率の悪い装置をわざわざ造り、その効率の悪さそのものが、ある形態的な魅力や愛嬌、動きの魅力などを生み出し、かつ、その装置の効率の悪さによって、目的とは別の偶発性を呼び込む余地を内包するという感じの作品だったようだ。
個々のパーツはそれぞれ自律した装置としてあり、それが同一空間に多数配置され、同時に(それぞれが異なるリズムで)散発的に作動することで、ある一つの音的、視覚的風景のようなものが立ち上がる。そこに、個々の装置やそこから聴こえてくる音に、関係性や無関係性を読み取るのは、それを観ている観者ということになる。
最初の「ヨコとか下とか」「蚊帳をうめる」では、音は、ほとんど物と物(物と空気)との物理的接触によって起こるものだったようだ。それが、その次の「丈の低い木の竹は低い」になると、音を発するのはオシレーターであり、つまり出る音は電子音で、キネティックな装置が行うのは、オシレーターのツマミを廻すという動作だということになる。つまり、それ自体が音を出す装置ではなく、音を出す装置を調整する装置として、動く造形物がつくられ、それが(中古品で正確なサインウェーブとかが出るとは限らないという)古いオシレーターを覆い隠すようになっている。
(トークを聞いくと、作者は「黎明期の電子音楽」の相当なマニアのようだった。)
最初の作品では、作品のキネティックな機構と、それによって生まれる音は、直接的な因果関係で繋がっているが、「丈の低い…」で作品の動きが作用しているのは、オシレーターのツマミという、すでに媒介装置として出来上がったのもだということになる。たとえていうと、動く作品の動きが、ピンと張られた弦を直接叩くのか、それともピアノの鍵盤を叩くのかの違い、のような違いが出てくる。鍵盤を叩く場合、作品が「既にあるピアノという装置」を内包している(あるいは、ピアノという装置にパラサイトしている)ことになる。
今回の「盛るとのるソー」は、それがさらに一歩発展したものと言えると思う。三次元の空間をカメラが撮影した像をディスプレイが二次元化して表示するという、一つの機構というか、それ自体として閉じた一つの装置というものがあって、それに対して、モーターとタイマーで動くような、ある意味素朴なキネティック装置に、どのような介入が可能なのか、という発想からきているように感じた。カメラ-ディスプレイ装置には、外部空間の取り込みと二次元への変換(取り込みと変換)が含まれているので、オシレーターのツマミを廻すということに比べて、相当複雑な要素が加わってくるだろう。たとえば、試験管の中のワッシャーが磁気に反応してカタカタと音を立てるという因果関係と、カメラによって撮られた映像がディスプレイに表示されるという因果関係は、かなり違う。後者は、二つの間に(目に見えない)いくつもの技術的処理過程が隠されている。そして、カメラ-ディスプレイという機構は、電子機器のツマミを廻すのとは違って、自分自身を自分の内に取り込むということを可能にする。
動く機構の上にのっていることで自ら動いているカメラが、それ自身自律的に動いているオブジェクトを撮影し、その撮影された像を表示しているディスプレイもまた、動いている。そして、カメラはオブジェクトの背景である空間もとらえているから、ディスプレイの映像には、この「作品装置が置かれている会場」の空間をも映しだされている。
カメラは、(1)自分自身の運動の反映として、ディスプレイに表示される映像の画角を動かす(この時、オブジェクトの一部とその背景である会場の一部を映している)。カメラは、(2)自律的に動いているオブジェクトの動きを捉えている。この(1)と(2)という二つの由来の異なる動きは、共に、ディスプレイの映像に反映される。
しかしこれは、スクリーンとしてのディスプレイ上に映し出された映像であるに過ぎず、ディスプレイは同時に、「ある厚みをもった板状のオブジェクト」としてキネティックな造形物の一部として組み込まれている。映像のなかには、会場もオブジェクトも、オブジェクトを観ている観客も、オブジェクトの動きも、それらを撮るカメラ自身の動きも組み込まれているが、それらすべてを組み込んだ映像を映しているスクリーン=オブジェクトであるディスプレイは、三次元の会場に離散的に展示されている、多数の造形物の一つの、しかもその一パーツでしかない。その事実を明かすように、ディスプレイそれ自身も、三次元的に動いてしまっている。
(限定的な画角とはいえ)様々な三次元的要素を取り込んで反映しているメタ三次元的な二次元の映像=スクリーンは、しかし、三次元的なオブジェクト=ディスプレイとしてみた場合、会場に点在し、様々な関係や無関係のなかに置かれる多数のオブジェクトの一つでしかない。二次元は、映像のレベルで三次元を包摂しているようにみえて、オブジェクトのレベルでは三次元内に包摂された一部分でしかない。二次元と三次元とが互いを食い合うように、互いを包摂しようとしている。
しかしここで重要なことが二つある。一つは、相互包摂はあくまで部分的、限定的であり、会場全体が相互包摂の循環に巻込まれているわけではなく、そのごく一部分に、二次元と三次元が部分的、限定的に、相手を取り込み合うような循環的流れが生じているところがあるということに過ぎない。もう一つは、前にも書いたけど、三次元→二次元という流れがあり、つまり、二次元は三次元を反映している。しかし、少なくとも装置としては、物理的には二次元→三次元という作用がないということ。ここで、二次元→三次元という作用には、観者による、観る、あるいは、探る、という行為的参画が必要となる。つまり、人が誰もいない時は、二次元はただ、断絶しつつただ静かに三次元の「反映だけ」をしている。
この二つによって、自己言及的な循環と、そこには収まらない、離散的な運動感との両方が、不思議なバランスで両立しているような空間ができているのではないか。
http://pocopuu.net/
●おお、『BEATLESS』(長谷敏司)がアニメ化されるのか。これは気になる。
http://beatless-anime.jp/news/
カーツワイルを読んでAIとかシンギュラリティとかに興味を持ち始めたのが2013年くらいで、でも、その頃は(カーツワイル読書会をやっている仲間内以外では)この話をしても誰にも通じなくて、一生懸命説明しても、あまり途方もなく遠い話に聴こえるようで、何か悪い宗教にでもハマっているんじゃないかという顔をされるだけだったのだけど、それより前に長谷敏司はすでに、シンギュラリティ以降の人工知能が、人間の心を「マインドハック」する話を書いていた。それがアニメ化される。
(近い時期の「早すぎた」小説として、山口優『シンギュラリティ・コンクェスト』というのもある。)
ぼくとしては、さらに一歩、二歩すすんで、多くの人に『アッチェレランド』(チャールズ・ストロス)を読んでもらいたいと願うのだけど。ただ、ぼくの周囲で、ぼく以外にこの小説を最後まで読めた人はいない(いろんな人に勧めたけど)。あり得る一つの未来予想として、目もくらむようなたくさんのアイデアと、考え抜かれた展開と思想性をもつものの、物語(小説)としてはとても退屈なものなので。とはいえそれは、もはや「物語」という形式が、我々の未来には通用しなくなるということなのかもしれないのだ(ギーク用語、ナード用語満載で、いちいち調べるのが大変ということもある)。
(『アッチェレランド』は、小説が好きの人であればあるほど「読めない」小説かもしれないけど。)