2022/01/14

●引用、メモ。『今日のアニミズム』(奥野克巳×清水高志)、第二章「トライコトミーTrichotomy(三分法)、禅、アニミズム」(清水高志)より。

西洋の哲学が基本的に《「主体/対象」「一/多」》という二つの二元論の組み合わせとしてあり、多である対象を統合する一としての主体が考えられるのに対して、アクターネットワーク理論では、《「主体/対象」「多/一」》と、組み合わせが変わっている(一である対象によって、多として諸主体のネットワークが生成される)こと。

《たとえば地球温暖化の原因の一つとされるオゾンホールが、いかなる影響のもとに成立しているかを、私たちが考えねばならないとする。このとき、この問題に関わっているさまざまなエージェントを、同時に視野に納める必要がある。化学者によってフロンガスがオゾンホールの原因であるとされるならば、そうした製品を作っている企業〔たとえば、モンサント社〕の見解を問いたださねばならないだろうし(「無害なフロンガスに代替した」などの返答が予想される)、温暖化の問題について有権者から圧力を受ける政治家たちも、その立場から対処に関与してくるだろう。さらに、気象に関することであるから、気象学者の見解も重要な手がかりとなってくるだろう(「歴史的に、現在みられるような気象変動はつねに起こってきた」などの発言がありうる)。》

《これらはそれぞれ「オゾンホール」という対象(これが中心的アクターである)を媒介にして初めて繋がる、人的エージェントである。「オゾンホール」自体は、それらのエージェントの作用が複雑に混じり合ったブラックボックスとしてあり、対象から主体が切り離されているというのは幻想である(このことをラトゥールは、「ハイブリッド」的にあるという)。》

《こうした場合、「オゾンホール」について確かな知識を得てよりよく対処したいならば、モンサント社の見解だけを鵜呑みにしてはいけない。化学者、政治家、気象学者などの全体を競合させる必要があり、どれか一つのエージェントに「オゾンホール」という対象の情報を一方的に負わせても、それはそのエージェントが自説を強化するだけで終わるだろう。そのエージェント(主体)にとっての対象になるだけである。それゆえ対象のアクターと、それに媒介される複数のエージェントがあってこそ、対象についてもより豊かな情報を得られることになる。》

《ここには複数の二項対立のメタ・レヴェルでの結びつきの意図的な組み替えがみられ、《「主体/客体」「多/一」》という構造が描き出されている。---「多なるものを関係づける働き」を与えられているのは「一なるもの」としての対象であり、逆に「多なるもの」が複数の主体的エージェントになっているのだ。複数の二項対立が、ことさらに組み替えられることによって、「多なるものを関係づける働き」という、これまで主体の側に特権的に付与されていた役割が、ようやく対象の側にも与えられる。》

●しかしこれではまだ、対象は人間主体の働きかけによって成立するものにすぎない。そうではなく、対象や自然を、それ自体として独在するものとしてとらえるには、「主体/対象」「多/一」に加えて、もう一つ「内/外」という二項対立を組み合わせる必要がある。

《ここで解決されねばならないのは、内在と外在の問題であり、これは「内/外」という二項対立として定式化されるだろう。《「主体/対象」「多/一」》という主客混淆、状況依存的なあり方は、関係的であることと、その外部にあることが、背反的でない形で、端的に同時に両立するような事態が生じたときに、一気に超克される。》

《ある立体的な対象とは、その内部に内部的関係をもち、同時にさらに他のものとの間に外部的関係をもつからである。》

《その意味で、グレアム・ハーマンが、ラトゥールの議論をきわめて強く意識しながら、まさにそうした中間的統一体こそがオブジェクト(対象)であると主張していることは、きわめて重要である。》

《分かりやすい例を挙げよう。あるハンマーによって釘を打つという場合、このハンマーと釘との関係は外的関係(上方の関係)だが、ハンマー内部にはそれを構成する原子などの内的関係(下方の関係)がある。このときハンマー内部の原子はつねに蠢動し、変化しているが、釘を打つという用途においてのみそれを見るときには、そうした関係はまったき顧慮されない。ハンマーというオブジェクト(対象)はそれら複数の関係の層を分離し、断ち切るものとして存在している。《複数の要素(項)を関係づけるもの》としての対象がアクターネットワーク論によって扱われたのだとすると、《複数の関係づけ(関係)を断ち切るもの》としての対象(項)、あるいは離接させるものとしての対象(項)が、オブジェクト指向哲学においては注目されるのだ。》

《独立的で、関係どうしを分離させるものとしての対象、そしてそのことによって関係からみずからを分離するものとしての対象は、たしかに《「主体/対象」「一/多」》といった二項対立に加えて、それをさらに内的に包摂するものが、第三項的に立てられることによって成立する。ハーマン自身は自覚的に強調していないが、前者に加えて「内/外」という第三の二項対立がここで加わることが、きわめて重要な効果を及ぼしている。》

《すでに述べた内と外との包摂関係は、包摂したものが次々とさらに外のものに包摂されるといった、特定の方向づけ、プロセスを描くものであってはならない---それでは包摂《関係》という《関係づけ》とそり外部が、背反的に置かれたままになり、調停されない二項対立で終わってしまうからである---したがってこの場合包摂は、どこまでも対象どうしが相互包摂するものでなければならない。こうした包摂にはそれを段階的なプロセスとして固定するような方向づけはなく、むしろ包摂する第三項としての位置は、代わる代わるあらゆる対象によって占められることになる。》

《包摂関係は、物理的なスケールとまったく関係がない。》

《包摂(外)、被包摂(内)という二項対立は、どこまでいっても潜在的に無限な相互包摂となり、あらゆる中心と周縁はさまざまな可逆的となり、一は多であり、多が一であるという世界のあり方が、個別な状況から離れた水準においても、拡張的に語られることが可能になるはずである。》

《加えてもう一つ、強調されるべき点がある。これまで述べられてきたように、状況に非依存的であるということは、過去や未来という時系列の変化にかかわりない、端的な対象がはじめてこの場にあらわれるということでもある。この対象は、「今」における端的な他者存在でもあるのだ。たとえばそうしたものとしての自然と出逢うとき、そのとき「私」はたんに主客混淆的なエージェントであることを超えて、端的な「今」における他者としての自然、そして端的で自在な自己そのものとも出逢うのである。》