2022/01/15

●昨日の日記で引用した『今日のアニミズム』の第二章「トライコトミーTrichotomy(三分法)、禅、アニミズム」でも触れられていたが、グレアム・ハーマンの面白いところは、オブジェクト(対象)を、内的構成(下方解体)にも外的関係(上方解体)にも還元されない、その中間物として捉えているところだと思う。そのときオブジェクトとは、端的に「ガワ」であり「形」であり「形式」である。実際ハーマンは、「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)というテキストで、オブジェクト指向哲学は対象を形式としてあつかう、とはっきり書いている。

二つの唯物論があり、科学的な唯物論はオブジェクトを内的構成に還元しようとし、全体論唯物論は外的関係に還元しようとするが、それではオブジェクトを他のものたち(環境)から切断することができない。しかし、オブジェクトを「形式」として考えることで、環境の変動に抵抗するものとしてのオブジェクトを考えることができる、と。

オブジェクト指向哲学は形式の権利を主張する。形式は、それぞれの規模において〔固有の〕構造をもつ。それは、勝ち誇った物理的存在が属す特権的な層に還元されることもなければ、諸差異を越え絶えまない流動における連続的変化とみなす宇宙的全体論に還元されることもない。〔たとえば〕猫やテーブルは不滅ではないかもしれないが、それにもかかわらず環境の変動に抵抗する。》

《要するに、湖はひとつの形式なのである。〔しかし〕科学者は湖を唯名論的に捉え、それを一連の変化する水の集合に対するたんなるニックネームとみなすだろう。〔科学者にしたがえば〕水の集合が、時間をかけて、ただ緩い意味において「ミシガン湖」と呼ばれうるほどにじゅうぶんな家族的類似性をもつにいたったにすぎないのだ。他方で、全体論的な立場は、湖をたんに相対的な〈湖性〉の領域とみなすだろう。つまり〔全体論にしたがえば〕湖は基本的に近隣の湖や岸辺と連続した領域なのである。以上のふたつの唯物論が逸しているのは、湖が自らの近隣の湖や因果的構成要素から切り離す方法だ。そうした切断があることによって、湖は〈非-湖〉のあらゆる力が自らのうちへと出入りすることをある程度許容し、しばらくのあいだ(たとえ永久にではなくとも)存続する形式でありつづけることができる。》

オブジェクト指向哲学は、対象を形式としてあつかう。形式は、自らが生じてきたところへと勝手に崩れ去っていくことはない。(…)哲学の仕事とは、自ら記述し認識する仕方ともけっして同一ではない、捉えがたい形式を研究することである。対象の形式は、物質的基体と具体的な(任意の瞬間・任意の文脈における)現れとのあいだに隠れている。形式は世界の床板のうちに隠れているのであって、その床板を、すでに知っているとみなされているもの(床板を構成する物質や床板がもつ効果)によって置き換えたとしても、形式を知ることはできない。》