2019-03-24

●引用、メモ。『非唯物論(グレアム・ハーマン)より。

●対象は、触発したり、されたりもできるが、「何一つなさないこともできる」。

(…)唯物論は様々な存在者を何か究極の構成をなす層に解消することなく、あらゆる規模を通して存在を認識するからである。ある特定のピザハットの店舗は、それを構成している従業員やテーブル、ナプキン、分子、原子以上に実在的なわけでも、それより実在的でないわけでもないし、このレストラン、さらにはアメリカ全土ないしこの地球上のピザハットの企業総体、ウィチタという本社のある都市などがもちうる経済効果やコミュニティにおよぼす影響以上に実在的であるわけでも、それより実在的でないわけでもない。》

《こうした存在者たちは他のものにはたらきかける(触発する)こともあれば、はたらきかけられる(触発される)こともある。しかし、決して互いの影響を通じてくまなく繰り広げられたりはしない。というのも、これらは別のことを行う、ないし何一つなさないこともできるからである。》

(…)我々は、ある種の反動的で本質主義的、素朴な実在論に連れ戻されるのだろうか? そうではない。なぜなら、われわれの言う本質主義は反動的なそれではなく、実在論もまた素朴なそれではない。》

《古い本質主義は、様々なモノの本質を知ることができ、さらにその知識を抑圧的な政治的目的のために使うことができると考えた(「東方の人民は本質的に自分で自分を治めることができない」)のに対して、非唯物論本質主義は、本質は直接に知りうるものではなく、ゆえにしばしば驚きをもたらす、という点に注意をうながしているからである。》

《さらに素朴実在論では実在は精神の外にあり、われわれはそれを知ることができると考えられているのに対して、オブジェクト指向実在論は、実在は精神の外にあり、われわれはそれを知ることはできないと主張する。こうしてわれわれは、非直接的、暗示的、副次的手段によってのみ対象にアクセスすることになる。》

《まるで人間が外部を擁する唯一の存在者であるがごとく、実在は「精神の外」にのみ存在するのではない。そうではなく、実在は塵や雨粒の因果的相互関係を越えてはいても、人間の領域でもそうであるように、生命なきものが関係しあう世界においても決して十全に表現されることのない、ある余剰として存在している。》

●どんな関係もその関係項を汲み尽くしそこなう。

《ある対象を下向きに断片に還元すれば、われわれは創発を説明できないし、対象を上向きにその効果に還元すると変化を説明することができない。ここから容易にわかることは、モノは何でできているか、モノは何をするのか、という二つの知識の基本形態のどちらにも転換しえない実在=現実としての物自体がどうして必要とされるのか、という点である。結局、ある物は知識に転化しうるといういかなる主張も、モノとそれについての知識の間にある明白にして恒常的な違いを説明することができない。かりに一匹の犬についての完璧に数学化された知識があったとして、この知識はそれでも一匹の犬ではないはずだから。》

《あたかも「同じ形式」が犬のうちにもありえ、さらに精神によってそのまま犬から引き出せるかのように。この教条主義的なかたちの形式主義に抗って、いかなる二形式の間にも等価性はありえないと認めなければならない。重大な転換がないかぎり、モノは単に知識に転化しうるものではなく、われわれの「実践」を通して何らかの接近に転化することもできない。カントにとって本当の問題は物自体の導入にあるのではなく、物自体が人間にだけとりついており、結果、有限性という悲劇的な重みの対象という単一の種に担われている。カントが指摘しそこなったのは次のようなことだ。   どんな関係もその関係項を汲み尽くしそこなうので、あらゆる生きていない対象は他のあらゆる対象にとっても物自体である。》