2023/02/15

●『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャヴィロ)の第三章「モノたちの宇宙」を読んで、ここでシャヴィロが「美(美的なもの)」と言っているものと、「唯物論では解決にならない」でハーマンが「形式」と言っているものが、ほとんど重なるように思った。要素(下方解体)によっても関係(上方解体)によっても還元し切れず、知的(認識的・現前的)にも実践的(使用的・道具関連的)にも把握し切ることのできない、モノのもつ余剰(オブジェクト性)の現れを、シャヴィロは「美」として、ハーマンは「形」として捉える。そしてこれは、ほぼ、ストラザーン=里見龍樹の「イメージ」とも重ねられるのではないか。存在論と美学と人類学が交差する地点が、ここにあるように思われる。

ただ、ハーマンが「上方解体(≒参照系の過剰)」によっても「下方解体(≒特異性の過剰)」によっても還元し切れない(零れ落ちる)というニュアンスなのに対して、シャヴィロは、モノは「参照系の過剰(関係のなかに自身の身を隠す・撤退)」と「特異性の過剰(自身の特異性を過剰に露わにする・発出)」という二重の働きの「共存」によって、掴み切れないのだ、というニュアンスであるところが異なる。

●ギネス・ジョーンズのSF短編「モノたちの宇宙」について

《一方で「モノたちの宇宙」は体系的であり、また自己参照的でもある。》

《遍在する媒質、あるいはぼくら自身の拡張として、モノたちの宇宙は、直接、目に見え、現前しているものがどんなものだろうと、これをはるかに越えて広がっている。》(参照系の過剰・撤退)

《他方、「モノたちの宇宙」はまた、個々の対象のあられもない発出のうちに、自らのあらゆる活力と特異性を通して姿を現す。》(特異性の過剰・発出)

《彼(主人公の修理工)は道具が「装置としての効果」から引きこもる「重苦しい全体性」に押さえこまれる。しかし同様に、修理工は道具の自律性を見せつけて注意を求めてくる「際立った要素」としての道具の蜂起に威かされている。》

《道具=存在における---撤退であるととともに発出であるという---二重の動きは二つの選択肢であると同時に双方が共存する仕方であって、そこではモノたちは永遠にぼくらには把握されない。撤退と発出に共通するのは、どちらも主体(主観)と対象(客観)の、あるいは知覚する人間と知覚される世界とのいかなる相関関係にも帰することができないという点である。両者ともに現前からの、および人間中心主義的な文脈からの逃走の様態なのである。》

●美的なもの(魅了するもの)は「人間」を越える

《したがって道具=存在は、現前に還元不能であるのと同じ仕方で---また同じ理由で---使用には還元できない。ことによるとことさらに驚くべき帰結が生じる。様々な対象が互いに出会うさい、それらの関係の基本的な様態は、理論的でも実践的でもないし、認識論的でも倫理的でもない。むしろ、そのどちらかである以前に、対象間のあらゆる関係は、ある美的な関係なのである。こういうわけでハーマンが言うように「美学は第一哲学になる」(…)。美的なものは、様々なモノの特異性と代理性に関わる。つまり美的なものは様々なモノに関与するのだが、それはモノたちが認知されえず、概念に従属しないかぎりにおいて、またモノたちを使用できず、規範にもとづいて規制されることもできず、規則によって明確にされることもできないという条件でそうなのだ。》

《ぼくがモノをどれだけ深く理解しようとも、またどれほど実用主義的、道具的に使用しようとも、モノのうちにある何かは、ぼくが行うカテゴリー化をまぬがれる。モノを消去し、すっかり消費し尽くす場合ですら、そこにはぼくがうまく一体化できなかったモノのうちの何かがなお残っており、包摂しきれなかったモノに対する何らかの力が存在する。美的なものには、理解したり、使用することのできる対象の諸相を越えて、ある対象をそれじたいのために感じとることがまず必要になる。》

《(…)悟性は挫折し、意思はそれがもっている力の極限に行き着く。まさに美的なかたちでのみ、悟性や意思を越えてこそ、ぼくはモノの活動態actusを、それが存在するとおりのもの---ハーマンの言う「存在の全き誠実性」(…)---と認めることができる。》

《この突然に発生するモノたちによる眩惑は、ハーマンが魅了と呼んでいるものだ。つまり、対象そのものの諸性質とは離れた、その上に後から加えられた、対象の実存の感覚のことである。魅了は、厳密に言って接近しえないものを提示することに関わる。(…)ぼくは自分(人間)からすっかりはなれたモノの全一性integrityを認めるように強いられる。このような遭遇はこの世界の媒介変数(パラメーター)を改変し、「意味の結構」を引き裂き、あらゆる同意を中断させる。魅了はホワイトヘッド呼ぶところの新しさを導き入れる。ある新しい存在者、すでに言われたことには帰属せず、何らかの前もって同意された地平のただなかにはうまく位置づかない何かのことである。》

●美的なものの作用には、ハーマンの言う「魅了」だけでなく「変異(形態変化)」というものもある、とする。

《(…)ぼくらの把握をこえたモノたちの「気づかれていない背景のはたらき」への退却に関わるような一種の美的出来事もある。これこそぼくらが魅了とは対照的に、変異(形態変化)と呼んだりするものだ。変異(形態変化)は一種、道筋の定まらない魅力であり、撤退と置換の動き、とどまるところのない生成の作用である。変異においては、モノの諸性質に関して、またそこに加えて、こちらを魅了するのはモノそのものではない。逆にモノの不安定さこそがわれわれを前に引きだすのである。このときモノは、一種の変幻自在な揺らめきのうちにさざめきながら移行していく。》

《魅了の動きにおいては、モノがその文脈から暴力的に出現するにつれて、意味の網の目は断ち切られる。しかし変異の動きのなかでは、モノがそれじたいの分岐する痕跡のネットワークのうちに消え去るにつれて、意味の網の目は増殖し、拡張し、反響し、歪まされ、無限に伝播される。》

●誘い=命題

《魅了と変異(形態変化)はともにホワイトヘッドが「感受への誘い=おとり」lures for feeling(…)と呼ぶ審級にあたる。これはホワイトヘッドにおける最も特殊な表現の一つであるが、この言い方は美的魅惑(また反発=嫌悪)の基盤をうまく描いているように思う。(…)この誘いlureのことを、ホワイトベッドは命題propositionと呼んでいる。》

●モノたちは互いに美的に遭遇しあう(このあたりは、ハーマン的であると同時に、ストラザーン=里見的でもある)

《(…)一般に存在者たちはお互いを「知ら」ない。あるモノの実在性は「そのモノに関して知覚されるものに帰することはできない」(…)し、諸対象は出会うさい、「互いの実在を組み尽くしそこなう」(…)と述べるハーマンは全く正しい。しかし、この認知と実践の双方の挫折で、この話は終わらない。というのも、ホワイトヘッドが言うように、存在者たちは、互いに知ったり操作したりする可能性がない場合であっても、お互いに「感じ」あうことで相互作用するからである。モノたちは互いに美的に遭遇しあうのであって、ただ単に認知的ないし実践的に出会うのではない。》

《(…)現前の直接性においてのみ、またそこで避けられない限定や失敗とともに、ぼくらはハーマンのもちだした逆説に直面する。つまり、「現実=実在的」対象と区別されるべき「感覚的対象」(…)、および機会原因主義や代替因果性(…)といった逆説のことである。(…)こうした遭遇は十全に認知されることはできないし、明晰かつ判明であることは決してないけれど、つねに「漠とした働きかけという感覚のえじきに」されている(…)。しかし、これら様々の経験の概念上の曖昧さはその力を減じはしない。むしろ全く反対である。》

●経験=存在

《(…)ホワイトヘッドにとって経験とは存在であり、ある存在者が感受することがらは、この存在者が存在するところのものだ。この意味は、ある一つのおとり=疑似餌lureを「楽しみながら受け入れる」ことの帰結として、ぼくはどうにか変容を---大っぴらにか、ごくわずかにか---とげている、ということである。》

《(…)ホワイトヘッドの主張では、非有機体の存在者ですら、何か「感覚の流入」のようなものを、少なくともエネルギーの流れのかたちで経験しているということになる。というのも、「すべての基本的に物理的特性はヴェクトルであり、スカラー(数値)ではない」(…)からである。》

●ただここで気になるのは、心身二元論なのだ(つづく)。