2023/02/14

●『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャヴィロ)を読み返しているのだが、この本、こんなに面白かったっけと驚くくらい面白い。

例えば第二章「活火山」において、関係主義としてのホワイトヘッドと、実在主義であるハーマンとを、極めて近い問題意識を持ち、同じ問題をいわば「裏表のやり方」で解こうとしているとして、その「裏表」の様を対比的に示しながらも、著者はホワイトヘッドを支持する立場から、ハーマンがやや批判的なやり方で検討されている。しかし、その上で次のように書かれる。

《ハーマンとホワイトヘッドの対比は基本的に文体の違い、あるいは美学の違いと言いたい。この意味は、これら思想家たちの他への接近方法の一つに対するぼくの享楽/喜びは最終的に趣味の問題であって、概念をめぐる善し悪しの判断を下すことではない、ということである。》

《カントが言うように、ぼくたちは趣味について言い争うことはできるけれど、それについて議論することはできない。思弁的哲学には、他の何にも還元しえない美学的な次元がある。》

そして、関係主義的なホワイトヘッドの美学を「美の美学」とし、実在論的なハーマンの美学を「崇高の美学」とする。これはこれで、納得できる。

ホワイトヘッドは、「強い経験」(…)に対応するように美を定義し、互いに緩和、順応しあう、「パターン化された対比に組み込まれた」(…)差異の問題と考えている。一方ハーマンは崇高の概念にうったえる。ハーマンはこの崇高という言葉を決して使わないが、むしろそれ自体の深みに隠遁した何かのもつ魅惑が問題であると考え、これを魅了allure(…)と呼んでいる。》

そして、「美の美学」こそを重要視する以下の著者の意見に対して、少なくとも「意識」のレベルでは大いに同意する。しかし、にもかかわらず、ハーマンに強く惹かれている。それは、ぼくは未だ「モダンの美学」の範疇にあるということかもしれないが、それにとどまらない別の意味(「他の何にも還元しえない美学的な次元」として)があるのかもしれないとも思う(ハーマンが「崇高」という言葉を決して使わないのは、もちろん意識的なことだろう)。

(追記。おそらくぼくは、ハーマン的な「魅惑」を、美と崇高の中間あたり、あるいは「(一なる)崇高さを欠いた(雑多な)崇高のカケラ」くらいの感じとして捉えて、それと、ストラザーン=里見龍樹における「イメージ」とを重ねたいと、ぼんやり思っているのだと思う。あと、箭内匡『イメージの人類学』を読まないと、と思っている。)

《二〇世紀の美学は圧倒的に崇高を支持する傾向があり、美をせいぜいとるに足らない、また古風なものとして、悪くすると、その懐柔的な保守主義においてはっきりと唾棄すべきものとして見ることが多い。ホワイトヘッドは、美を変わった仕方で称えている点で、その時代の趨勢に真っ向から反対するように仕事をしてきた。他方、ハーマンによる魅了の美学は、今日まで連綿と続くモダニストの伝統にピッタリはまっている。しかしながら、二一世紀の今日、主要な美的再評価の端緒にぼくらがついているのかどうかは悩むところだ。(…)何ものも隠されていないし、もはや隠匿された深みなどない。モノたちの宇宙はただぼくらに使えるようになっているのみならず、ますます避けようのない何かになっいる。(…)ぼくたちにとって支配的な美的手続きにはかならずサンプリングや合成、リミックス、カット&ペーストが働いている。このような世界では、ぼくたちの直面する美学上の問題はハーマンのそれよりもホワイトヘッドのもの、つまり、崇高性や魅了の問いではなく、美やパターン化された対比の問いになる。(…)すでに存在する素材の膨大な蓄積から、どのような選択と決定のプロセスをくぐれば、何か新しいものを作ることが可能なのか? 明日、事態は別かもしれないが、少なくとも今日、未来はホワイトヘッド的なものである。》

●「趣味」の問題、あるいは「美(美学、あるいは文体)」の問題は、「真理」や「倫理」には決して還元できない独自の次元(というか、地位)をもつ。それは「経験」の成立(あるいは「自己」の構成)に深くかかわる。スティーヴン・シャビロはこの本の序章に次のように書いている(ただこれは、新たに組み直された心身二元論―-経済学=身体・延長、美学=心・思惟-―とも言えて、これをどう解くかが問題となる)。

《偉大な詩人であるステファヌ・マラルメはかつて「つまるところ万事は美学と経済学者につきる」と書きつけた。ぼくはこの蔵言(アフォリズム)を存在論的な真理にする(この本ではこのことを証明する努力はしないけれど)。倫理学政治学、認識論は全て経済という「最終審級」によって決定されている。つまり、人間の用語では、生産力や生産関係を通して決定されており、宇宙論的な用語で言えば、量子論的場やエネルギーの流れ、エントロピーの過程といった「一般経済」によって決定されているのである。しかし、こうしたすべてとならんで、これは―-それと共存するが還元することはできない-―内的経験、つまり美的なものの領域なのだ。「様々な主体の経験をのぞけば―-ホワイトヘッドは書いている-―何もない、何もない、何もないまるはだかの無しかあり得ない」(…)グレアム・ハーマンの場合がそうであるように、また彼とは異なった理由によるものではあるが、ぼくも「美学が第一哲学である」(…)という地点に辿り着いたのである。》