2023/02/13

●ハーマンは、「実在的オブジェクト」と「感覚的性質」のあいだにある緊張関係に「空間(space)」という名を与えているのだが、なぜ「空間」なのかいまひとつ飲み込めなかった(以下、引用は図も含めてグレアム・ハーマン/飯盛元章訳「オブジェクト指向哲学の76テーゼ」より)。

《32.手許にあるハンマーや、雨をしのいでくれる屋根つきのプラットフォームは、いかなる理論的・実践的接近(アクセス)によってもとどかないほど深遠である。それらは実在的であって、感覚的ではない。》

《33.ハンマーが壊れたり、砕けたり、うまく使えなくなったりするときに、感覚的なハンマーから実在的なハンマーに向けて---わたしたちが知っていると思っていたものより深遠な、いまだ知られざる実在的なハンマーに向けて---、感覚的性質がふたたび割り当てられる。》

《34.わたしたちは感覚的ハンマーとは接触したが、実在的ハンマーとは隔たったままである。実在的ハンマーとその感覚的性質とのあいだの緊張関係を、空間(space)と呼ぶことができる。》

だが、訳者の飯盛元章による訳注を読むことで腑に落ちた。

《(32)“space”には「空間」のほかに、「間隙」の意味もある。実在的オブジェクトとしてのわたしと実在的オブジェクトとしてのハンマーのあいだには「間隙」があり、両者は隔たっている。“space”の緊張関係によって意味されているものは、オブジェクトどうしが入れ物としての空間のうちで共存しているという事態ではなく、むしろ両者のあいだに埋めることのできない間隙が横たわっているという事態である。》

これを読んだ上で、つづき。

《35.クラークとライプニッツは、空間にかんして、それは存在者にとって空虚な入れ物であるのか、あるいは、存在者どうしの関係によって生じるものであるのかという点をめぐって論争した(一七一五-一七一六年)。だが両者は誤っていた。空間は、関係的かつ非関係的である。》

《36.星々は、わたしたちの眼前に直接的に広がっているのではなく、何光年も離れている。しかしそれらは、わたしたちが知っている何かとして、また可能な目的地として、わたしたちの近くにある。》

《空間とは、隔たった事物の接近可能性(アクセシビリティ)と、けっして近づくことも組み尽くすこともできない、事物のより深遠な実在的核とのあいだの緊張関係である。》

●つづいて、四つの対象のあいだにある四つの緊張関係について。ここでハーマンは「緊張関係」(つまり、関係かつ非関係)について語っているのであって、決して「断絶」や「無関係」のみについて語っているのではない(ここで、われわれとまったく無関係なのは「本質」のみだろう)。

《39.時間は、感覚的オブジェクトと揺らめく感覚的性質とのあいだの亀裂である。》

《40.空間は、感覚的性質と、その奥底のどこかから---たいてい驚きや混乱がもたらされるような場面において---信号を送ってくる、謎につつまれた実在的オブジェクトとのあいだの抗争である。》

《41.本質は、隠された実在的オブジェクトと、それを<まさにそのようにあるもの>にする隠された実在的性質とのあいだの闘争である。この緊張関係は、経験のうちにいかなる足場ももたず、どこかほかの場所で生じる。》

《42.形相は、経験の感覚的オブジェクトと、それを---表面的性質のあらゆる流動的揺らぎをこえて---<まさにそのようにあるもの>にする実在的性質とのあいだの裂け目である。》

《43.時間・空間の対は、つねに比類ない女王とみなされてきたが、わたしたちはその姉妹を時間、空間、本質、形相から成るあらたに四重王朝へと迎え入れることにしよう。》

●われわれが通常「空間」として考えているものは、ここでは感覚的オブジェクトどうしがもつ関係(接合)における「隣接」として表現されている。

《52.[観察者としての]実在的オブジェクトには、同時におおくの感覚的オブジェクトが現前している。わたしはたったひとつのオレンジではなく、オレンジの木立に囲まれて生きている。これら多数の感覚的オブジェクトは隣接している(contiguous)[第三の接合]。》

●ハーマンは、四つの緊張関係のほかに、三つの放射(性質と性質の関係)として「発出」「縮約」「二重性」と、三つの接合(オブジェクトとオブジェクトの関係)として「退隠」「没頭」「隣接」を挙げ、さらに、四つの緊張関係の「攪乱」として、「シミュレーション(第一の分裂)」「理論(第二の分裂)」「魅惑(第一の融合)」「因果作用(第二の融合)」が挙げられる。無関係どころか、四つの対象(実在的オブジェクト、実在的性質、感覚的オブジェクト、感覚的性質)の「関係」ばかりを考えているとさえいえる。

●「76テーゼ」は、「100テーゼ」を書こうとして中断されたままの未完の状態で、最後のところで「芸術」について書かれるのだが、中途半端に終わっている。ここでは、ハイデガーに触れつつ、彼との違いが述べられているが、ハーマンの芸術についての考え方はきわめてクラシカルであり、過激な理論からそれが出てくるのが面白い。

《70.わたしたちが勇気のうちに見いだすのは、自己とその原理への忠誠であって、反対に外的な帰結は非難される。勇気ある人物は、安全や出世、人気を非本質とみなすが、反対に臆病者はこれを重視する。》

《74.ハイデガーは講演『芸術作品の起源』のなかで、闘争について語っている。この闘争は、世界における特殊事例でなければならない。さもなければ、あらゆるものが芸術作品になってしまうだろう。》

《75.ハイデガーが語る闘争は、大地と世界のあいだで生じる。彼の語る「大地」はたしかに隠れたなにかではあるのだが、わたしたちの「実在的オブジェクト」とは異なる。なぜなら、ハイデガーの語る大地は、単一の全体的なかたまりだからである。》

《76.わたしたちがあきらかにしなければならないのは、闘争が通常の状態とどのように異なるのかであり、また芸術作品における闘争が、壊れたハンマーや勇気などの闘争とどのように異なるかである。》

●聴いていた。