2022/02/08

●(一昨日、昨日からのつづき)存在を存在たらしめるものである「外部」は、内部にある窪み(空隙)に偶発的に充填されることによってしか姿をあらわさないものであり、その姿はその都度異なる具体性をもつだろう。カニッツァ図形では、窪みを持つ複数の円(パックマン)の配置によって、窪みの部分に外部としての「多角形」が充填される。外部である多角形によって、複数のパックマンからなる「全体」のゲシュタルト(と、その内なる観測者)が生成される。この時に外部は多角形という具体的な形としてあらわれるが、この多角形は外部のすべてではないし、その表象や象徴でもない。この多角形は「外部」の存在を知らせるものだが、外部の充分な表現というわけではない。そして、複数のパックマンによって生まれる多角形というゲシュタルトの生成が、その背後にある「外部」に依存していることを、ゲシュタルト生成によって事後的に知ることになる(ここまで、昨日のまとめ)。

●ティモシー・モートンは、目で見ることも手で触れることもできないが、多くのデータ、膨大な計算力をもった計算機、そして論理を通じてはじめてその「存在(実在)」を知ることのできるもの(地球温暖化、生命圏、進化、エル・ニーニョ現象など)をハイパーオブジェクトと呼ぶ。そして、たとえば「地球温暖化」は、その原因となった近代以降の科学(技術)によってはじめて存在を知ることができるというようなもので、それは探偵が自身の知によって自分が犯人であったことを発見するような状態だとする。つまりそれは、人間が持ち得た理性(数学・科学・技術)が、その内側に、人間にはとても制御できない大きなもの(外部)を宿してしまったということである、と。そして我々はその巨大であり不穏である外部のなかに住んでいる(不穏な外部によって生かされている)ことを自覚せざるをえない、と。以下、引用は「この美しいバイオスフィアは私のものではない」(「現代思想」2017年12月号)より。

《一七九〇年頃から、人間が地表に薄い炭素の層を堆積させ続けている。今やこの層は、深い湖や、北極の氷のなかにも検知されうる。そして最近、地質学がこれに与えた呼称が、人新世(Anthropocene)であり、それは、人間の歴史が、地質年代と決定的な仕方で交わる、不穏な(…)時代である。》

《(…)今我々は、並外れて巨大な諸存在---地球温暖化、進化、生命圏(biosphere)---に直面している。有限な知性を持った三次元的存在では、これを直接見ることはできない。むしろ、それらは数学的かつ論理的に推論されうるものであり、理性そのものが厳密には人間風のもの(…)ではないこと、そして、我々が考えているよりもずっと大きな。そしてより難しい実在に我々が住んでいるということを強調する事実でありうる。》

《私は私の頭に降ってくるこの雨、亜熱帯のヒューストンに降るこれらの大きな雨粒を見ることも触れることもできる。(…)しかし、雨粒は地球温暖化でも人新世でもない。気候は実在するが、にもかかわらず我々はそれを指し示すことができない---そして気候変動はさらに厄介な現象だ。なぜなら〔気候よりも〕気候変動の方がより一層実在的であるからだ。》

《地球が温暖化するにつれて何が起こっているのかを発見するために我々が使っている道具そのものは、人間が地核に炭素を沈殿させ始めたときに使われていた諸々の道具の一部でもある。こうしたエコロジカルな知識は、ノワール・フィクションの形式をもっている。それは言い換えれば、エコロジカルな自覚が、オイディプス的であるということだ。探偵は、彼自身が犯人であることを発見する---これが〔まさに〕オイディプス物語の本質ではないか。このように、エコロジカルな時代のジレンマとは、その時代が、著しく増大した知識の産物であると同時に---そればかりでなく、その知識自体が、深く地球にダメージを与えた惑星規模の陰謀(…)の構成要素の一つなのだ、ということだ。》

《(…)我々が地球上で最高で最後の生物ではなく、思考可能だが不可視のあらゆる種類の厖大な諸存在のなかで生きているのだということを、まるで我々自身が理性によって明らかにするかのようである。》

●このような認識が、オブジェクト指向存在論へとつながる。つまり、どのような実在においても、《それらがそうであるところのもの(実在的対象・実在的性質)》と《それらが現れる仕方(感覚的対象・感覚的性質)》の間には必ず亀裂があるのだ、と。実在とその現れとの乖離は「主観」の問題ではなく「実在それ自身のあり方」の問題である。だから、自分自身でさえ自分を全体的に把握することはできない。

《(…)オブジェクト指向存在論がしていることは、そこかしこで実在における亀裂を増大させることである。諸事物が存在するのと同じだけ実在には亀裂が存在する。なぜなら、事物とはまさに諸事物であり、そして諸事物は、それらがそうであるところのものと、それらが現れる仕方のあいだにおいて、内部から引き裂かれており、諸事物それ自身に対して現れ出るときでさえ引き裂かれているからだ。》

《(…)実在が、スプーン、雲、生態系、ハイエナ、塩入れ、そうした諸事物で満たされているということを示唆している。私はそれらをその全体性においては把握することは決してできない。なぜか。事物であるところのものと、それが現出する仕方のあいだの還元不可能なギャップ、そのようなものとしての対象にまで達するギャップがあるからだ。これは、ある対象、それどころか何であれすべての対象は、全体化することができない、ということを意味している。》

●そのような亀裂(ギャップ)が、ハイパーオブジェクトにおいてあからさまに顕在化するので(ハイパーオブジェクトは見ることも触れることもできず、時間的にも空間的にもあまりに巨大でかつ散らばって存在していて、多くの観測機、計算機と、論理を用いて推測するしかない、摑みがたいオブジェクトなので)、否応なく我々は《事物が持続的に現前するものである》という「実在」にかんする先入観を捨てなくてはならなくなる。

《何ものもその現出と一致しないからこそ、私のタイトルの言葉にあるように、この美しい生命圏は私のものではないのだ。不安は、我々が自分たちの家にいるのに寛げないということに気づくとき、その自然な帰結として生じるもの、すなわち、不気味なものである。人工演算装置の助けを借りて、人間理性が検知した巨大な諸存在は、人間という器に簡単に収まるものではないだろう。》

《気候や生命圏、放射能のようなエコロジカルな諸存在は、空間的にも、時間的にも計り知れないものであるため、持続的現前という、我々の習慣的な考えを打ち倒してしまう。それらは、あたかも、物理的・非人間的な脱構築的哲学者のようであり、事物とは何か、時間と空間が何であるかといった我々の諸概念を、粉々に粉砕してしまう。(…そのような諸概念は)プルトニウム239の半減期は、二万四一〇〇年---これは、ショーヴェ洞窟まで遡る人類の全歴史とほとんど同じくらい長い---だということを発見しうる近代の観測装置が出現するまで、問われることのなかったものである。(…)ハイパーオブジェクトによって、実在が何であるかについての我々の先入観を放棄せざるをえなくなる。その先入観とはすなわち、事物というものが(…)持続的に現前するものだとする考え方である。》

カニッツァ図形に現われる「外部」としての多角形が、外部の全体ではないように、ハイパーオブジェクトの「全体」は決して摑むことができない。そのようなハイパーオブジェクトたちのなかに---ハイパーオブジェクトたちによって---我々は発生している。

《ハイパーオブジェクトは、全体化する思想に還元されない。思考することそのものが、とても適わない相手をハイパーオブジェクトの形態において見出すのだ。(…)これはつまり、実在が人間中心的で、人間風(…)のものだということに確信を持てなくなっていくということだ。このことは、思考そのものが、全面的に人間存在の側にあるとは必ずしも言えないということを意味している。》

《エコロジカルな諸存在が、それらを完璧に包摂するであろうメタ言語の可能性を打ち砕くからこそ、エコロジカルな思想は、必然的に暗い(dark)のだ。》

《(…)理性によって、我々は我々自身が、宇宙空間で穏やかに浮遊しているのではなく、ヨナのように、非常に巨大な対象からなるクジラ、つまり生命圏に飲み込まれていることを見出す。こうした対象は、その諸要素に還元されず、その諸要素もその対象に還元されることはない。それは、その諸要素が厳密にはそれ自身と重なり合わない集合なのだ。》