●(昨日からのつづき)存在(現存在)とは異なる「存在」、「存在を存在たらしめているもの(存在者)」を問題にするということは納得できる。死と再生について考えるというのは、そういうことだろうと思う。ただ、ぼくはこれについてハイデカーの「言い方」で考えることには躊躇がある。
人が、名や形にとらわれ過ぎていると考えられる時、それを解体するには二つの方向をみる必要があると思う。名や形が、諸力の流れへと解体されていくという方向。そして、諸力の流れから名や形が生成されていくという方向。そしてそのどちらの方向でも問題になるのが、形から流れへ、流れから形へと相転移するその境界にあたる中間というかエッヂの状態だろう。たとえば、柄沢祐輔は、秩序とランダムの中間状態(の比喩)として、スモールワールドネットワークを見いだした。秩序ある状態とは、それぞれのノードが、等しく近い距離にある、等しい数のノードとのリンクをもつ。ランダムの状態では各ノードは、距離も個数のそれぞれバラバラなリンクをもつ。スモールワールドネットワークによって《近くのものと緊密に繋がっている状態(クラスター性と呼ばれる)と遠くのものと繋がっている状態(ショートカットと呼ばれる)というネットワーク構造のもつ本質的な二律背反的な側面と構造が数理的なモデルと視覚的な図像としてはじめて明確に表現されることになったのである。》(『設計の設計』「非線形フォームと新しい空間の表象」、下図も)
この図はとても明快で分かりやすいが、一つ大きな単純化がなされてしまってもいる。本来なら、ランダムな状態と秩序立った状態とが、同じノードによって構成されているはずはないのだ。ネットワークがランダムな状態にある時、どのノードが秩序に参加し、どのノードが秩序から排除されるのかは、決定されていないはずだ(さらに言えば、すべてのノードが均質であることもないはず)。つまり、ランダムネットワークと秩序立ったネットワークとは、同じ次元にはない(三枚並びの図としては描けない)。勿論これはコンセプトの分かりやすい提示のためのモデルであり、柄沢さんの作品(や柄沢さん自身)はこれよりもずっとおもしろい。
この点について郡司ペギオ幸夫は、さらに突っ込んで、オートポイエーシスやアフォーダンス、そして脳科学が「外部」を無視している(描けないはずのランダムネットワーク---あるいは前ネットワーク状態---の図をあらかじめ描いてしまっている)ことを批判している(先回りしていえば、ここで郡司の言う「外部」こそが「存在を存在たらしめているもの」に当たると思う)。以下は、「現代思想」2022年1月号「未邦訳ブックガイド」所収の『不在としての生命・意識』(テレンス・ディーコン)について書かれたテキストから引用。
《オートポイエーシスは、矛盾を帰結する自己言及形式の肯定的転回として提案された。「私=私ではない」という等式内の私に「真」を代入しても「偽」を代入しても矛盾する。しかし意味論を真か偽かのいずれかに留めるのではなく、「…真偽真偽…」なる無限列を代入すると、等式の左右は一致することになり、矛盾は解消される。これが矛盾の肯定的転回である。同時に「部分=全体の縮小」は矛盾するが、自己相似パターンであるフラクタルは、この等式を満たすようにパターン概念を拡張している。「私が受容する機能=環境が提示する機能」を満たすように、機能を予定調和的に限定したものがアフォーダンスであり、「システムの内=システムの外」なる矛盾を肯定的に転回し、内と外を比較可能に均質化し循環させるシステム概念がオートポイエーシスである。(…)これらは全て、矛盾を解消する規則を公理とし、その外部を排除する世界像である。》
《目的論的現象、意図をもったかのような振る舞いは、意識や心を問題にするとき端的に現れる。これを閉鎖的なシステムによって説明しようとするなら、意識や心をもったホムンクルスを見出すことになる。(…)網膜から入った信号は視床下部へ伝達され、脳の背側、腹側の二系列で前頭前野へ伝達される。こうして、空間的位置関係、対象の意味が同定され、「リンゴとして」見ることは、様々な神経細胞の共同作業として実現される。ディーコンはこのようなアプローチを、ホムンクルスの隠蔽であり、問題をよりわかりにくくするだけだ、と断じる。それは、ホムンクルスをより小さなホムンクルスの分業にし、細分化の果てにホムンクルスを愚鈍化させ、機械化できるとする信念に基づいているという。(…)ホムンクルス問題とは元来無限退行の問題なのだから、これを有限で断ち切るアプローチへの批判は極めて妥当である。》
つまり、あるシステムの生成や持続や変質や解体を、そのシステム内部(そのシステムの延長)のみに原因を求めることでは説明できない、ということだろう。その時にシステムの「外部」は「存在しない全体(不在としての全体)=目的因」としてシステムの生成や持続のために機能するのだ、とつづく。
《ディーコンは『不在としての生命・意識』において、生命や意識は、外部からもたらされることによってのみ説明されるものであり、それはアリストテレスの目的因として解釈されるものだと論じる。この問題意識を明確にするため、全体概念は、存在しないからこそ全体なのだと述べる。》
《アリストテレスの四つの原因、作用因、質量因、形相因、目的因における目的因(英語を直訳すると最終因)は、現実に不在であるからこそ、見出されると論じられる。家の建築を考える場合、その作業を担う大工などの作用因、木材や鉄骨、釘など、建築財料である質量因、設計図である形相因は、いずれも建築の現場に直接見出すことができる。対して、例えば「誰かが住居とする」といった建築の目的は、建築現場には見出せない。この不在こそが、不在を補完すべく、そこにはない目的を暗示し、何かを受け入れようとする。不在において、途中の過程が見えないまま想定される最終的原因が志向される。具体性を欠いたまま、しかし具体性を志向する意図が、不在によって担われる。》
次に、不在が作用するイメージが、まず、ゲシュタルト(カニッツァ図形)を例として、そして物質レベル(ヘモグロビン)を例にとして、説明される(それは、どちらも「窪み」をもつ)。つまりここで「不在」とは、何かの否定(否定神学)ではなく、未だ無い何かを受け入れるための「窪み(間隙)」が「ある」ということであり、その「窪み」に充填される何かとして「外部」が「ある」ということなのだ。余談だが、カニッツァ図形の最後にちらっと言及される「内在する観測者」という概念は(グレアム・ハーマンやエリー・デューリングとも通じ合うし)とても興味深い。図の引用も同上。
《不在としての全体をイメージするため、ここではカニッツァ図形を考えよう(…)。それは図2右に示すような、内側を向いた複数のパックマンによって知覚される、実際には存在しない多角形である。ここでは黒い円が四つ配置され、その上にあたかも白い四角形が重ねて置かれるように知覚される(…)。カニッツァの多角形は、部分であるパックマンが複数存在し、特殊な配置を取ることによってもたらされる。部分と配置の間の違和感(肯定的アンチノミー)、及び、部分と配置が図となることを退かせる(否定する)ことで、図ではなく地において、多角形が発見されるのだ。しかも知覚された途端、それは円を覆い、地ですらない。かくして、カニッツァの多角形こそが、部分であるパックマンと部分である別のパックマンを関係付ける、「存在しない全体」である。また、カニッツァの多角形では、まさに、これを見ている観測者が、二つのアンチノミーの共立を受けれ、多角形を知覚している。この内在する観測者という問題は、ディーコンの議論で核心を成していく。》
《酸素を運搬するヘモグロビンは、結果的に酸素を受け入れるべく、窪んでいる。ディーコンの唱える目的論は、内部に封緘されない。ヘモグロビンは酸素の受け入れを目的として窪んでいるわけはなく、窪みが必然的に酸素を受け入れるわけでもない。受け入れる準備は、必ず成功するものではなく、一か八かの賭である。そこには本質的な原初的偶然が潜んでいる。》
「外部」とは、内部の「窪み」に充填されるかもしれない未知、としか言えない何かだ。しかし確実に存在していて、それによって内部(システム)が存在できている(あるいは、時にシステムの破壊をもたらす)、システムと同じ次元にはない何か(存在を存在たらしめているもの)、なのだ、と。しかしこれだとあまりに茫洋として掴み難いので、ティモシー・モートンによる人新世とハイパーオブジェクトという概念から、手がかりとなるイメージを探りたいと思うが、今日はここまでにしておく。(つづく)