●「開いている」とか「閉じている」とか言う言葉の使い方の粗雑さが気になる。あるノード(あるいは、フレーム、システム)は、必ず外に対して開いている(そうしなければ自分を維持できない)し、ある特定のものに対して閉じている(そうしなければ瓦解してしまう)。わたしから見ると完璧に閉じているようにみえるシステムも、わたしには見えないところで別の何かとつながっているだろうし、どんなにオープンに見えるシステムでも、何かは排除していなければ成り立たない(すべてとリンクするシステムがあるとすればそれは神しかない)。
どんなノードも、別のノードとのリンクをもち、それとは別のノードとのリンクをもたない(断絶している)。重要なのは、そのノードなりシステムなりが、何と繋がっていて、何とはつながっていないかという具体的な配置であるだろう。そして、何かと繋がり、何かとは繋がらないという風に、それぞれが個別の接続と断絶の配置をもつ異なる多数のノードやシステムたちが、どのように「配置」されているのかという、もう一つの配置がある(ノード内のリンク配置と、ノード間のリンク配置)。
ノード内のリンク配置とノード間のリンク配置という二つのレベルの異なる「配置」が、世界の配置をつくっている、と言える。こう考えると、開くと閉じる、という対立概念はなくなる。それは、相対的に少ないリンクをもつノードと、相対的に多くのノードをもつリンクがある、とか、ノード間配置的に近いノードとのリンクしか持たないノードと、ノード間配置的に遠いところまでリンクを伸ばしているノードがある、という違い、などという風に言い換えられ、より具体的で詳細な記述となる(開く/閉じるというのはざっくりとしたイメージでしかない、とはいえ、「なんとなく開くモード」みたいにして、あくまで雑なイメージとしてならばあり得るかも)。相対的に多くのリンクをもちながらも、配置的に近いリンクしかもたないノードもあるだろうし、相対的に少ないリンクしかもたなくても、配置的に遠いところにのびるリンクをもつノードもあるだろう。
(ここではとりあえず、ノード、システム、フレームの違いは問わず、「ひとまとまり」となる領域のスケールは可変的であるする。)
内と外という対立概念も相対化できる。ノード間リンクの配置が変化するということは、つまりは個々のノードのノード内リンクの配置が変化することを意味するから。内の内は外であり、外の外は内であることになる(ただし、それによって完全に内=わたしが消えるとまでは言えない、つまり、ノード内リンクとノード間リンクとの違いが解消されるわけではなく、その不思議は残る)。では、ノード間リンクの配置が変化するから、それに対応してノード内リンクの配置の変化が強いられるのか、それとも、ノード内リンクの配置の変化こそがノード間リンクの変化を生み出すのか。
そのように考えると、鶏が先か卵が先かという話になってしまう。そこで、ノード内リンクの配置とノード間リンクの配置の間にある、なにかしらのメディウムというものを考えざるを得ないかもしれない。ここで言うメディウムとは、ノード内リンクの配置とノード間リンクの配置とを結ぶネットワークそのものの実在性として考えられるのではないか。つまり、メディウム(媒介する物質性)とは、ネットワークのことである、と。
ネットワークとは、ノードとノードとのつながりであると同時に、その繋がりを可能にする条件であり、それを可能にする場所のようなものだと言える。メディウムとしての場所とは、三次元座標によってあらわされる空間のようにあらかじめ「ある」と分かるものではなく、例えばAとBとのリンクが繋がった時に、後から振り返って、AとBとが繋がるための「場所」があったのだ、と、はじめて言えるようなものだろう。
だから、メディウムとは、主語を包む述語であると同時に述語を可能にする見えない何かであり、未だ発見されていない未知の場所が、具体的なリンクによって発見された後に、改めてそう名付けられる名前だと言える。
メディウムというと通常は、既にある関係性のことを指す。例えば、キャンバスと絵の具によってつくられる一つの形式と社会との間に結ばれたある種の関係性(約定)が「絵画」と呼ばれる(絵画というメディウム)。しかしそれは事の半分でしかない。個々のノードが別のノードとの間に別の関係性を新たにつくることができるという可能性のこと(可能性がこの世界のなかにあるという、そのこと)をメディウムとして考えた方がいいと思う。
(例えば、異なる領域への横断性とか差異をもつもののコンフリクトという考えは、「常識的」に考えれば確かにそうなるけど、それは「既にあるもの」を前提に考えすぎていて、逆に、何かが「生まれる」瞬間を捉え損ねるようにも思える。コンフリクトがなくても、たんなる「混合」による「配置換え」によってでも何かが生まれるのではないか、と。ただ、こっちの方を強調しすぎても、「現実的」でなくなりすぎるかも。)
(例えばある種の哲学者は、論理形式や文法こそがメディウムだと考えたのかもしれない。)
●四月に撮った写真、その二、なのだけど、どうもイマイチな感じなので、ルール違反だけど、今日撮った写真を二枚まぜておく。最後の二枚は、四月ではなく、今日撮ったものです。