●竹橋の近代美術館で観た『「映像表現 '72」展、再演』が面白かった。まず、再現された空間そのものが面白い。
あらゆる工業技術的メディアはすべて過渡的なメディアであると言える。工業製品であることにかわりはないとしても、古典的メディア、例えばギターや油絵具は、すでに定まった完成形をもち、今後、技術進歩による変化があるにしてもマイナーチェンジに過ぎず、ギターとしての、油絵具としての形は変わらないであろう(あるいはたんに消え去るかもしれない)。ギターを弾く技術をマスターした人は、(新製品が出続ける限り)新製品のギターにも同じ技術で対応できるだろう。しかし、工業技術的なメディアは、技術進歩と資本主義の要請により常に変化することが強いられ、あるフォームは次のフォームにとってかわられてすぐに過去のものになる。ある形式がスタンダードとして長く生き続けると考えるのは難しい。
だからこそ、工業技術的メディウムを用いた作品はメディウム論的なものにならざるを得ない。八ミリフィルムによって撮られた映像は、ただ「映像」のみを問題にするであるならば、デジタル信号に変換されデジタルアーカイブにほとんど完全に吸収される。でも、リールに巻かれたフィルムが映写機を通過し、フィルムとレンズを通した光がスクリーンに投射されるというプロセス全体が問題になる時、その作品は「八ミリ」というメディウムと不可分になる。
投射されるもの(フィルム)、投射する装置(映写機)、投射されたもの(映像)、投射を受け止めるもの(壁、スクリーン、その他)、これらのものたちがつくりだすネットワークが作品であるという時、その作品を再び召喚しようとすれば、古くなったメディアごと再現しなくてはならなくなる。例えば、反対を向いて設置された二台の映写機の間を、メビウスの帯として環になった一本のフィルムが結び、対面する壁に同じフィルムの同じ映像を時間差をもって投射する作品(この作品は16ミリだが)で、問題なのは「対面する壁に同じ映像が投射される」という「映像による効果」であるより、むしろその間にある、二つの映写機、二つの映像を関係づける「やり方」であり、その「やり方」が可視化されていることの方で、そこにメディウムの特性が不可分にかかわっていることだ。
そこにあるのは、三次元空間と、それとは異質な次元にある映像と、異質な次元である映像を生み出している三次元内の装置と、映像を受け止める物とその配置、そしてそれらの間で乱反射する光という、異質な者たちが重ね合されてできたネットワークとしての「時空」であろう。この展示の面白さは、「あるメディウム」と不可分であるネットワーク(時空)が、個々の作家の作品を単位とするというより、のっぺりと広がった空間の中に重ね合わせられるように配置されていることから、視覚的には一望できる空間が、そして美的にみれば即物的でそっけない空間が、そのなかに「作品を観よう」という意図をもって踏み込んだ者には、とても複雑な迷路のようなものとして立ち上がってくるところにあると思う。パッと見はそっけない密林みたいな。
●そして、この時空が「再現されたもの」であるという時、異なる三つの「同一性」が考えられる。まず(1)物としての同一性。つまり、72年の作品が再現される時、その時に展示されたものと同じ映写機、同じフィルム、同じオブジェクトが用いられなければならないというレベル。この展覧会ではこのレベルはほぼ問題にされていない。(2)映像の同一性。必ずしも物質として「同じフィルム」が用いられなくても、同じネガからプリントされたフィルム、あるいは、当時の状態に限りなく近づけるように再現された映像が得られなければならないというレベル。このレベルにおいては、現代のデジタル技術が積極的に用いられているようだ。つまり、過去を再現するために「過去にはなかったもの(現在の技術)」が用いられる。(3)メディウムの同一性というレベル。当時用いられたものと「同じ映写機」である必要はないとしても、八ミリの作品であれば八ミリの映写機とフィルム、スライドの作品であればスライド映写機とポジフィルム、ブラウン管テレビを用いた作品であればブラウン管テレビを、というように、映像およびそれによって開かれる空間は「同じメディウム」によって再現されなければならない。この展覧会ではこのレベルが最も重要だと考えられているようにみえる(河口龍夫の作品など、一部は、「本当は違うけどあたかも同じメディウムで再現したかのような形」がとられているものもあるが)。
工業技術的なメディウムが、常に過渡的であることによって、自らのメディウム性に自覚的で(つまりそれと不可分で)あらざるを得なくなるという特徴がここに出ているように思う。例えば「絵画」であれば、まず優先されるのが(1)の「物としての同一性」で、どんなに破損が激しくてもそれがオリジナルであることが重要になる。そして次が(2)で、オリジナルである「物」に対して可能な修復が施される。そして、しばしば壁画の一部が建築物からひきはなされて展示されるように、(3)はもっとも後回しになる。
つまり、工業技術的メディウムによる、メディウム論的な作品において、その作品の同一性(というより固有性)は、「物」に根拠をもつのではなく(美的効果に根拠をもつのでなく)、メカニズムとネットワークのあり様に根拠をもつということだろう。この展覧会が「再演」と名つけられているのもそのためかもしれない。
●そして、再現(再演)された空間の外側(壁の裏側)に、映像を裏から覗くようにして、「再演」にまつわる現在からの視点(当時の資料や再現の手法、作家のインタビュー)が展示されている。この感じも白かった。
●ただ、一つ分からなかったのは、「再演」されるのが、何故、他の展覧会ではなく「この展覧会」だったのかということの根拠がどこにも示されていなかったことだ。展覧会を丸ごと「再演」するという試みはとても面白いと思ったし、この展覧会が重要なものであったということは「再演」によって納得させられた。《複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どこから見るのも、どれだけ見るのも自由という展示(上映)形式は、国内初であると同時に世界的に見ても先駆的な試みでした》という歴史的な位置付けも理解できる。しかしそれでも、何故、今、ここ(近代美術館)で「これ」をやるのかということは、いまいちよくわからない。
しかしこれは批判ではない。もっともらしい意味づけ文脈づけがなく、その「根拠」が空白のまま(というのは言い過ぎで、薄弱くらいが適当かも)で宙づりであるところがぼくには面白かった。まるで『シュタインズゲート』の冒頭で、ラジオ会館の屋上にいきなりタイムマシンがめり込んでしまったような唐突さで、現代の竹橋に七十年代初期の京都の展覧会が出現してしまったという感じが面白かった。
●それとは別の話だが、山中信夫のピンホールカメラの内部に入りこむことは、なかなか得難い良い経験だった。