●作品=再帰性を観測する、二つの異なる観測者の位置についての話を昨日の日記に書いた。
作品を、外から規定するメタ視線で見る場合、再帰性は、再帰性=慣習=メディウム=社会的関係という系列にある。つまり、作品を支えるメディウム再帰性は、社会的諸関係の効果であり、その結節点として外から規定される(映画というメディウムが、フィルム-映写機-スクリーンというセットの装置として慣習化したのは、技術的な「必然性」によってではなく、技術的、産業的、政治的、文化的等々、様々な文脈-関係の偶発的な絡み合いからである)。
一方、作品をみる「わたし」の経験という内的視点でみる場合、再帰性は、再帰性=イメージ=呪い(憑き物)=経験という系列としてあらわれる。「わたし」が、一週間前にみたxと、昨日みたx`と、さっきみたx``から、いつも同一の感覚的イメージ=経験を得ることができるとすれば、それはすべて同じ作品Xであると言え、そのイメージ(もののけ)がそのXに憑いているということと同じであろう。回帰する呪いのように、作品をみるたびにイメージが再現されることが作品の同一性の証しとなる。呪い=イメージの反復性。
だから、それが(外的視点からみれば)そっくりの偽物にすり替えられていたとしても、その違いが「わたし」に分からなければ(そこから「同じ」経験を得られれば)、それは内的視点からは同一の作品である。あるいは、ある映画が、劇場のスクリーンで観ても、タブレットPCで観ても、同じ感興を「わたし」に引き起こすとすれば、それは内的には同じ作品であろう。
(あるいは、濃度、強度、というものもある。オリジナルのセザンヌと複製されたセザンヌからは、「同じようなもの」を感じるが、複製はオリジナルよりそれが薄まっている、弱まっている、あるいは分かりにくくなっている、ように思われる。)
ここから言えるのは、内的なイメージや感覚がもともと「呪い(反復)」であるということだ。A時点で感じた感覚aと、B時点で感じた感覚bとが「同じ」であると言えることがそもそも、感覚(経験)が反復=呪いとして生起しているということを示す(感覚の非一回性)。それはつまり、厳密には同じではないものを、だいたい「同じもの」として処理しているということだ。
(「だいたいあってる」とわれわれは言う。厳密には同じではないものを「同じもの」として処理する場合、どの程度「同じ」であれば「同じ」で、どの程度にまでズレが大きくなると「違う」のか。その境界線――あるいは判断のための着目点――は場面に応じて移動するが、その移動を「内的」に操作することは可能なのか。)
(厳密には違うものを「だいたい同じ」ものとして認識するわれわれのルーズさが、例えば、トークンとタイプといった階層性の概念の理解に繋がるのではないか。ある一匹のアリ――個物――を示され、あれはアリだと教えられることで、類としてのアリをざっくりと理解する。その理解はざっくりとしつつ開かれたもので、後から、シロアリはアリっぽいけどアリではない、とかいう修正をいれることも可能だ。)