国立新美術館で、「アーティストファイル2015 隣の部屋」内覧会。時間が二時間しかなく、挨拶などがあって実質一時間半くらいで、しかし一時間半で観られるような展示ではなく、はじめから興味をもっている作家のところを集中的に観て、あとは流す感じになってしまった。とはいえ、会期中、改めてもう一度観に行ってじっくり観たいと思える充実した感じであった。
●小林耕平の作品は、様々なメディア間の翻訳・交換・対話が主題となっているが、それは基本的に「無茶ぶり」と「こじつけ」によって成り立っている。作品は、言葉→物→映像1(身体・場所)→物の空間的配置→映像2(言葉・身体)という継起的変遷を経て展開されている(あるいは、「言葉→物→映像1」と「言葉→物→物の空間的配置→映像2」という二つの展開として解釈することも可能、)。それらが同一空間内に配置される。最後の映像2は、「物の空間的配置」がなされている場所(展覧会場)で設営後に撮影されているので、展示空間は多重化されている(映像2は、展示空間に投射された「展示空間に関する解釈」だ)。そして、この作品は共同製作されたもので、小林耕平のほか五人(計六人)のアーティストがかかわっている。つまり、異なるメディア間の変換とは、異なる脳、異なる身体間の変換でもある。異なるメディアを各脳・各身体がつないでいるともいえるし、異なる脳・身体を、各メディアがつないでいるとも言える。すべての過程に等しく六人がかかわっているわけではなく、言葉(三人)、物(一人)、映像1(五人)、空間的配置(おそらく一人)、映像2(四人)と、重複しながらも、その都度異なる編成で作られている。こう書くだけで容易に想像されると思われるが、展示空間には、非常に多重化されたフレーム(文脈)が折り重ねられ、折り畳まれている。
●最初に、小林を含め三人によって書かれた十五の何かを断定する言葉がある(「タイムトラベルは土下座の強要である」「ペナルティータイムとは、トマトケチャップの滴りである」など」)。言葉は「無茶ぶり」としてある。それに対する「こじつけ」として、言葉に対応する物が制作される。制作(こじつけ)は、言葉に対しての解読であり、解釈であり、新たな何か(工夫)を付け加えることでもある。そしてその後は、言葉+物が、次の段階に対する「無茶ぶり」となり、「こじつけ」としての映像1(「台詞に身体を与える」)が制作される。そのようにして過程がつけ加えられてゆく。
三人による断定の言葉に対する最初の「こじつけ(物の制作)」は小林一人で行われるが、次の「こじつけ(映像1の制作)」は、小林に加え、三人のパフォーマーと一人の撮影者によって行われる。つまり「無茶ぶり」する者(たち)と「こじつけ」する者(たち)とは、一部重複するが(そのすべてに作者の小林耕平がかかわるが)、ぴったりとは重ならない。問いと応答の間に、他の身体・他の脳の介在がある。また、言葉+物の「無茶ぶり」に対して映像は、身体、運動、音声、場所、フレーミングによって応える(解釈する・こじつける)という形で、異なるメディアへの変換としてある。
●「無茶ぶり」と「こじつけ」の間には飛躍がある。あるいは、「無茶ぶり」とは「こじつけ」によってしか対応しようのない飛躍の要請であり、強制である。「無茶ぶり」された脳や身体は、そもそも出しようのない答えをひねり出すために、自身の経験や固有性を最大限に使用することが必要になろう。だから、「こじつけ」はその都度その都度で要請される一回限りの固有の解であり、一般的な解にはならないだろう。
●言葉→物→映像1→物の空間配置→映像2という作品の継起的展開は、(展覧会を観る観者にとっては)壁に書かれたテキストを読み、会場内の作品(物・映像)を観ることを通じてようやく読むことができる(解釈できる)ものだ。観者にとって会場は、まずはたくさんの妙な物が散らばり、妙な姿勢をする人たちの写っている映像が投射されている場所としてあらわれる。作品の元となった十五の言葉は、壁に書かれるだけでなく、観光案内板のように、作品のビューポイントを示すようにキャプションとして配置されていて、雑多な空間に設定された15の仮のフレームのように作用する。
だが、空間は完全にフラットに、一様に広がるわけではない。多数の作家たちによる展覧会の一部であり、その順路により入り口と出口が決まっている(空間に方向性が仕込まれている)。入り口左手に解説のテキストが書かれた壁があり、右手に、物の広がりとともに映像1があって、物たちの間を経た先に映像2がある。つまりある程度は、作品の継起的展開と空間の方向性(順路)とが重なっている。だから、「この展示空間そのもの(という「無茶ぶり」)」に対する「こじつけ(解釈)」である映像2(「会話を観る」)を、観客がいきなり最初に観ることはないはずだ。
多重化された空間的フレームが、多重化された時間的フレームの展開に「ある程度は」寄り添う形で、展開的に重ねられているといえる。ただあくまで「ある程度は」であり、空間の広がりと時間的展開とは、どちらが支配的だとは言えない形で重なっている。
●映像1は、展示室内に置かれた「言葉+物」を別の(外の)空間に(そして、観者とは別の身体に、あるいは動いている状態に)向けて開いていて、映像2は、展示空間をその内に自己言及的に織り込んでいるという風に、二つの映像は開く働きと閉じる働きの対になっている。
映像1では、かつての小林作品を思わせる視覚的なフレームの多重性が意識されているように見える。また例えば、回転する物=装置に対して「風車の前の土地」という場所が選択されているなど、視覚的なだけでなく比喩的、文脈的なフレームも多重化される。
映像2で映されているのは、観者が今、作品を観ている「この空間」であるので、映像の中の人物がある方向を見ることにつられて、観者もまた、実際の空間のなかで同じ方を見る、ということが起こったりする。
映像2では、展示されている物たちが、パフォーマーたちによって、(会話をしている)「言葉」として解釈され、語られる。つまり、言葉として始まった作品が、様々なメディアと脳、身体を経巡った後に、再び言葉として着地する(しかし、そこ――展示空間――には、映像2だけではなく言葉や物があり、空間があり、観者がいるので、その「言葉」が最終決着というわけではない)。その時、最初はバラバラだった十五の言葉の断片が、「会話」という互いに呼応する形の言葉へと変質している。しかしこの会話もまた、「無茶ぶり」と「こじつけ」によって成立しており、本当に会話が成り立っているのかどうかよく分からない(とはいえ、「普通の会話」も同様かもしれない)。