ICCの永田康祐は、「ポストプロダクション」という写真の作品もとても面白かった。
http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/postproduction/
「Malformed Objects」の時の写真作品は、多重露光(という言い方は全然デジタルっぽくないのだが)みたいな感じの作り方によって複数の平面(というか、複数の「深さ」)を一つの平面(一つのフレーム)上に折り重ねる感じだったと思うけど、この作品では、フレームが過剰に折り重なっているような状況を実際につくって、それを撮影し、そこから《写真内のゴミなどを自動的に取り除く写真編集ソフト》を使ってフレームを溶かしていく感じなのかと、解説のテキストから推測される。
モノと映像、鏡像のような反映する像、そしてガラスなどを通過することによる歪像、あるいは、様々な形で映像を映し出す複数のフレーム(支持体)などによって、フレームが複数化され、異なるフレームの像たちが相互に反映し合っているような状態をつくって写真に撮る。この、相互に反映し合いながらフレームが多重化する状態は、それ自体として既に視覚的に魅力のあるものだろう。このようなフレームの多重化は、われわれの自然な視覚においても起るが、それが写真に撮られたり、絵に描かれたりして、フレームの多重化状態それ自体がさらにフレーミングされることで一層際立つことになる。
モノ(対象)の位置(地位)はフレームによって確定される。それがそこに実際にあるモノなのか、ディスプレイに呈示されている映像なのか、鏡像(反映像)なのか。スマホのように不透明な板に表示された映像なのか、あるいは、透明なガラスを間に挟んで、そのモノの後ろにある透けた像なのか。どのようなフレーム(どのような地)において、その対象(図)があらわれているのかを見ることで、人はその違いを判断する。そしてその判断は、われわれが三次元的な空間のなかにいるという前提によって根拠づけられる。
(フレームが多重化された状態が魅力的なのは、我々はそれによって対象の根拠にかんして惑わされながら、惑いのなかで根拠を探すために視線を泳がせ、その「探る視線」が、「われわれの視線のありようそれ自体」を観る---自分のモノの見方を観る---視線となるからだろうと思われる。)
しかし、《写真内のゴミなどを自動的に取り除く写真編集ソフト》は、そのような人間の判断とは違った判断で像を把握するだろう。そのソフトのアルゴリズムが、実像と虚像との違い(その像がどのフレームにおいて現れているのか)を区別しないため、人がフレームを判断するときに根拠とするものを、ノイズと判断して消してしまうのだろう。そこには「人の視覚」とは別の視覚が立ち現われる。
それによって、対象が、所属するフレームを見失う。いわば、フレーム全体としての図と地の関係の整合性(つまり、三次元という秩序)が崩壊する。いわば、視覚的な論理階梯の相互侵犯のようなことが起る。
最初の、フレーム内でのフレームの多重化はフェルメール的であり、二つめの、視覚的な論理階梯の相互侵犯はエッシャー的であるとも言えるだろう。しかし、この二つのことが同時に起こった時(いわば、フェルメール×エッシャーが起った時)、それは、どこか、一筆ごとに図と地の関係がその都度捉え直されて、その捉え直しが積み重ねられることでできる、セザンヌを思わせるような不思議な空間性を帯びるように感じられるのだ。
ここに現われるのは、虚実の秩序のたんなる崩壊でもなければ、たんなる融合でもなく、虚から実が浮かび上がり、実が虚へと溶けてゆくという、突出と溶解とのせめぎ合いであり、その複雑な折り重なりであるように思われる。フレームが特定されないことで、対象の位置(地位)が不確定になる。それでもなお対象の位置を確定しようとするならば、われわれは「見ること」を際限なくつづけるしかなくなる。しかし、人はある対象を永遠に観続けようとはせず、ある程度の探索で見ることを打ち切るだろう。そして、打ち切る度に、ある暫定的な虚実の判断、三次元空間の構成を行うが、それは常に割り切れない計算のようなもので、まさに割り切れない引っかかりが残る。
この引っかかりが、われわれが視覚的統合を行うことによって抑圧される、統合よりも下のレイヤーにある知覚のピクセルのようなものが、統合されようとしたり、解体されようとしたりする、その運動の気配や感触のようなものを、気付いた時は常に既に統合されてしまっている知覚のなかに持ちこむのではないかと思う。
つまり意外にも、ある一定のアルゴリズムに従った非人間的な知覚が、むしろ人間の知覚のリアリティの底(下の層)にあるものをあぶりだしてしまっているのではないかという気が、ぼくはした。