●「アニメ・マシーン」を読んでいる時、ふと、吉本隆明の「ハイ・イメージ論」に出てくる「世界視線」のことが頭に浮かんで、その最初の章である「映像の終わりから」を読んでみたのだけど、吉本には八十年代の終わり頃に(インターネットさえまだない時代に)、もうここまで見えていたのか、と驚いた。この頃、ぼくは普通に吉本隆明を読んでいたはずなのだけど、ぜんぜんわかってなかったのだなあ、と。
吉本はまず、臨死体験をした人がよく語る、「自分を含んだ状況全体を斜め上くらいから俯瞰した自分が見ている」という視覚経験を取り上げ、それと「想像によって作り上げられた像」を結びつける。
《想像的な像の特徴はふたつかんがえられる。ひとつはその像が、はっきり輪郭をつくれない疑似視覚だということだ。もうひとつは、にもかかわらず全方位の像であるため、視覚ではまったく不可能な、対象物の裏側も側面も上下も、あたかも視えるかのようにあらわれることだ。》
《すべて想像力でつくりだされた像は、対象物と想像している主体とを同時に視ているもうひとつの〈眼〉と、対象物のただの視覚像とに分解される。もうすこし突っ込んでいえば、対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に包み込んでいるもうひとつの〈眼〉を内在化できれば、想像作用でつくられる像にたどりついたことになる。》
そして、3DCGこそが、この「想像作用でつくられる像」と同等なものであるとする。
《コンピューター・グラフィックスの映像は、はじめて立体画像を視線の正面からの形象と、裏側や側面や上下からの形象とを、等価にまた等しい自在さと正確さで、また同じ速さで、同時に現前させた。それといっしょに、この映像が連続して生成変化するかたちを視覚像として映しだせるようになった。平面スクリーンに対象物の撮影像をつくり、それに明暗や形態の輪郭をつけて立体像をつくるのではなく、平面スクリーンに映像化されるにはちがいないが、投影図ではなく、想像作用の像とおなじように、正面も裏面も側面や上下からの形象も等価に描き出された映像が、刻々に変形される像がえられる。》
つまり3DCGでは、ある対象が特定の位置から見られているのではなく、対象は三次元座標のなかで既にあらゆる方向から眺められるように造形されており、たまたま今、平面スクリーンに映し出されている像は、既に存在する潜在的な無数の視点のうちから選ばれた一つでしかない、ということになる。このような、無数の視点によって既にあらゆる方向から眺められているということ(いわば、「三次元座標そのものが見ている」こと)と、その中で特定の一点が定められていること(今、見えている平面スクリーン上の像)とが同時に存在するような視線が「世界視線」と呼ばれる。
●平面スクリーンに映し出される画像の解像度は、平面に配置されるドット(画素)の数と密度によって決まるが、3DCGの解像度の場合は、(平面的な像だとしても)画素だけでなく三次元的な座標の密度が問題となる。文字通り「次元が一つ違う」。吉本は「高度情報化」という事態を、3DCGの映像が比喩として示す、このような次元の異なる大きな変化としてとらえている。
《「高度化」という意味は、たんなる「機械化」では工程を線的につなぐこと、または線型に重ねることだから、工程の資料の充実は、いわば自然数の和の総体で象徴できる。だが「情報化」のばあいでは「高度化」はマトリックス表現になるから、所定の要素の相乗数の線型的な総和で象徴されることになる。おなじ「高度化」でも、いわば濃度と次元展開性がまるでちがっている。ここでは「高度化」は、人間の手の経験に代わる「機械化」の質量をふやしたという意味ではなく、「機械」の経験を制御する「人工脳化」がつぎつぎ次元展開されるイメージになっている。》
このような見解は、現在の時点でみればそれほど卓越しているとはいえないかもしれないけど、吉本はこれを25年以上前に書いている。その頃に既に、このような認識から世界を見ていたということになる。吉本にこのような認識が可能だったのは、彼が理系―技術系の人だったからかもしれない。
●「アニメ・マシーン」では、単眼の実写カメラの構造によって示される、一点透視図法的な視点が、いわば対象を「標的化」するものとして(ヴィリリオから借りた言葉で)シネマティズムと呼ばれ、それに対して、アニメーション・スタンドという装置が表現する多平面的な運動が、アニメティズムと呼ばれ、対比されていた。比喩的にいえば、すごいスピードで走っている列車のなかにいるとして、その、前や後ろの窓から外を見ると、世界のなかに侵入してゆく(あるいは、世界から遠ざかってゆく)ように見えて、それがシネマティズム的な運動と呼ばれ(先験的な奥行のある世界)、しかし横に向いた窓から見ると、近景は速く過ぎ去り、中景はそれよりゆっくりと動き、遠景はあまり動かないという風に、視覚像が複数の層に分けられ、隔たりが生まれ、分配的なものとして運動が現れる、このような、複数の層の間の「隔たり」によって相対的な運動が生まれることが、アニメティズムと呼ばれるものだった。
ここで、前者のシネマティズムにかえて、特定の位置(視点)をもつ実写カメラではなく、特定の位置(視点)と同時に「三次元座標そのものの視覚(潜在的なすべての視点)」をも持つ、世界視線としての3DCGの画像による動画を代入して考えることもできるのではないか。
吉本が書く通りに、3DCGのつくる画像が、われわれが自然にもつ「想像力」と基本的に同質であり(臨死体験と同質であり)、それを究極的に強化するもの(人工脳)であるとすれば、それはわれわれをどのような状態へ連れてゆくのか。現在の技術ではおそらく、単眼レンズによる実写カメラの映像でも、いくつかのアングルがあればコンピュータの計算によってどのアングルからの像も得られるだろうから、実写カメラの映像ですら潜在的に「世界視線」をもつものとなる(もはや、あらゆる映像がCGだとも言える)。つまり隔たりが消える。それに対してアニメティズム的な、「隔たり」によって多平面的で分配的な運動を生む映像は、どのような関係をもち、どの程度違ったことが出来、あるいはどのように批評的であることができるのか、と。