●『On Your Mark』を観た。宮崎駿がつくったチャゲ&飛鳥のPV。95年、「エヴァ」とだいたい同時期なのか。『紅の豚』の次で、『もののけ姫』の前。宮崎駿のキャリアのなかでも迷いが感じられる時期で、その中途半端さが出ていて、イマイチ垢抜けない感じではある。いろいろな意味でベタで、時代を感じさせる。
前にこの日記で、「アニメ・マシーン」の記述と絡めて、宮崎駿が「神としての少女」を登場させたのは「ラピュタ」が最後だと書いたけど、まだこれがあった。世界を破滅させるテクノロジー(ここでは明確に「原子力」だけど)と、世界の希望である少女が「同じ位置」を共有しているというパターン。
ただ、いつもの行動するヒロインではなく、ここで少女はほとんど能動性がない。少女は、カルト教団から警察によって助け出され、しかしこんどは国家機関によって監禁される。そしてそこから、造反した警察官二人組に助け出される。少女はただ、状況の流れに従っているだけのように見える。少女は羽根をもつのだけど、その羽根は重々しく、羽根によって能動性を奪われているようにも見える。
とはいえ、超越的な能動性をもつとも言える。少女の救助は一度目は失敗して、二人組は高いところから落下するのだけど、そこで世界がリセットされて、もう一度やり直しになる。この、世界のリセットを、神としての少女が行った能動性だとみることもできる(同じ世界が何度も反復されるループ物だとみることもできるけど)。この時の少女は羽根を伸ばして飛んでいた。羽根を伸ばすことで超越性を得るのか。
(畳まれた羽根は重さ――重荷――を表し、少女の能動性を剥奪するが、伸ばされた羽根は軽やかになり、少女の超越的能力をあらわす。)
(ここで、少女に世界内的な能動性がないのは、世界とのインターフェイスを欠いているからかもしれない。少女を助けたのは大人の男性二人組みであり、もはや少年ではない二人には、少女と共闘する権利がない、と。少女が世界内的な能動性を得るためには、パートナーとしての少年が必要なのかもしれない。)
少女を救出した二人組は、地下世界から、細長く頼りない道路を昇り、トンネルを抜けて地上に出る。地上は放射能に汚染されている。二人組は、汚染の最も酷い場所へと向かっているようで、そこで少女は空へ帰ってゆく。汚染の最も酷い場所こそが、少女の場所なのだ。少女こそがテクノロジーの核心であり、世界を滅ぼすものが、同時に世界で最も気高いものでもある。
少女はテクノロジーの核心部分であり、汚染された土地に吹いている風でもある(最後の方で、車に乗っている少女の衣服をはためかせる風の表現はすばらしい)。少女は風と一体になるが、風はもはや汚染された場所にしか吹いていない。
テクノロジーを道具として利用するためには少女を囲い込み、隔離する必要がある。造反二人組は、それを否定し、人間たちが決して住めない少女の場所に、少女を返しにゆく。
だからこのラストで、神としての少女は人間たちを救うのではなく、見捨てる。神は人間を見捨てて空に(風に)帰って行く。空高く飛び去る直前に、ほんの一瞬だけ、少女が、自分を助けてくれた二人組をふっと見下ろす顔のクローズアップがある。この時の、何とも複雑な表情がすばらしい。ここまで少女は、良くいえば無垢ともいえるが、基本的に人間に対しては無関心であるような表情だった。だが、この一瞬だけ、慈悲のような感情を表情によぎらせる。この瞬間だけ神の顔になる感じ。人間に「救い」があるとしたら、この顔にこそある、というような顔。こんな顔を描ける宮崎駿はやはりすごい(まあ、この顔が描きたくてつくっているのだろうと思うけど)。
ほんの一瞬だけ慈悲をよぎらせて、しかし、次の瞬間にはもう空へと帰ってゆく。少女を助けた二人組は、そこで間もなく死ぬだろう。
(「ラピュタ」以降の宮崎駿は、意識的に脱オタクというか反オタク的な方向で「トトロ」「宅急便」「豚」を作っていて、しかしその方向だと「世界を滅亡させるテクノロジーと神としての少女」という自身のオブセッション的な主題を形にできなくなっていて、そこに95年というカタストロフ的な年を迎えて、その主題が「On Your Mark」として回帰する、ということだろうか。
でも、「On Your Mark」のラストで、神としての少女は人間を見捨てて高いところへ帰ってしまっている。これは、八十年代の宮崎駿はまだ「神としての少女(≒人間と折り合いをつけ得るテクノロジー)」という希望を持てていたけど、九十年代後半になってその希望は消えてしまったということなのではないだろうか。そして、次の「もののけ」を、ものすごく力を込めてつくることで、「神としての少女」という、オブセッションであり希望であるものの死――俗っぽい言葉で言えば「大きな物語」の死――を受け入れた、ということではないだろうか。)
●最初にも書いたけど、95年という年に、このような絶望的なというか、終末論的な作品をつくるというのは、ちょっとベタすぎるという気がしないではない。だけど、時代の空気をベタに真に受けて、それに本気でハマり込んで揺さぶられることのできる能力が、大衆性を持ち得る巨匠の才能ということかもしれない。