●昨日の日記の『夢と狂気の王国』の感想には自分でも納得し切れていないところがあって……、もう少し考えたい。
まず、作品への不満としてあるのが、宮崎駿への迫り方が中途半端であるにもかかわらず、わかりやすく面白いキャラだからといって作品の軸にしてしまっているという点だ。で、面白いと思う点には、「別のジブリ」の姿が垣間見える瞬間があるということ。では「別のジブリ」とは具体的にどんなことなのか。
考えてみると、この映画には、いくつかの世代の異なるペアが存在することがわかる。プロデューサーとしての鈴木敏夫と西村義明、アニメーション作家としての宮崎駿庵野秀明、親子である宮崎駿宮崎吾朗、巨匠である演出家と新米プロデューサーという関係の高畑勲と西村義明。そしてそれらの関係の根本にあるのが、高畑勲宮崎駿の関係だと言えるのではないか。で、その高畑勲はこの映画ではほとんど不在(不在の中心)であり、ちらっと姿は現すがほぼ何も語らない。最高位にいる者は語らないのだ、と。
この映画でぼくが特にリアルだと感じたのは、西村義明における「高畑勲へのきっぱりとした腹の括り方」と、宮崎吾朗の「強い苛立ち」だった(それと、あと、庵野秀明の飄々とした感じもあるけど)。これはどちらも下の世代の側の感情で、そして対称的な反応だと言える。西村は高畑に対し、全幅の信頼を寄せているのと同時に突き放してもいる。彼は繰り返し「かぐや姫…」は高畑の最後の作品だと言い切っている。あなたのわがままは最大限尊重するがそれはこれが最後なのだと肝に銘じよ(最後である限りにおいてそれにわたしはとことん付き合う)、という感じだ。対して宮崎吾朗はもやもやしているように見える。自分はいわば「間違ってこの位置にいる」のだから、何かをやるとしたらそれは自分の意思や欲望ではなくてあくまでジブリのためにやるのだ、と。だから「あなたは何をやりたいのだ」などとわたしに問うな、と。この苛立ちは、実際に対面している川上量生に向けられているというより、宮崎駿鈴木敏夫に向けられたものでもあろう。
下の世代が上の世代に対してもつ複雑な感情のリアルさ。これは、あくまで作家としての宮崎駿と彼の作品を実現するジブリのスタッフたちという方向で描かれていた『ポニョはこうしてうまれた』にはあり得なかった視点であろう。この感じは、宮崎―鈴木という対等な関係からは出てこない感情で、だがおそらく先輩後輩という関係の高畑―宮崎という関係には響いてくるものがあるのではないか。
この映画クライマックスの一つに、空襲の後、困っている時に宮崎の父に助けられたことがあるという人からの手紙を、宮崎駿が受け取ったというエピソードがある。父親にもそういうところがあったのかと宮崎が思い、それが(父の像と重ね合わせた人物を主役としてもつ)『風立ちぬ』に影響したというエピソードだ、と言える。だがここで宮崎は、父についてだけでなく、つづいて高畑勲についても語る。
「運とかめぐりあわせとか言うしかないことがある。困っている時にたまたま助けてくれる人がいたかいなかったで全然ちがう。パクさんなんて、空襲の後まる二日間歩き回ったけど、助けてくれる人など誰もいなかったという。そうするとああいう人になってしまう。」(記憶によるとこんな感じ)
聞きようによっては相当ひどい事を言っているのだが、これはきわめて親しい間柄だからこそ成り立つ親しみを込めたキツめの皮肉のようなものだろう。この言葉に、パクさん(高畑)への敬愛と距離感との両方が込められているように思う(だが、最上位にいる高畑勲自身は、それに関しても何も語らない、という作品構造)。
このような、下の世代から上の世代への複雑な感情こそが「別のジブリ」の感触であり、それを拾っているところ(そしてそれが父―息子的対立というような単純な図式に還元されてしまわないような配慮がなされているところ)がこの作品のリアリティであるように思われる。でも、そうでありながら結局は宮崎駿のキャラに頼るような形でまとめられてしまっているというところが、この作品への不満なのではないかと思った。
●あと、この映画は音の組み立て方(音楽ではなく)がちょっと変わった感じで、面白かった。