●「明日は雨が降るかもしれない」という可能性があったとして、それが10%なのか、30%なのか、70%なのか、で、それに対する備えは違う。10%ならばほぼ気にする必要はないだろうし、30%ならば携帯用の折りたたみ傘で十分だろうし、70%ならば、傘だけでなく服装や靴もある程度は雨を想定したものを選ばなければならなくなるだろう。
何かが起こるかもしれないとしても、それはどの程度起こり易いのか。それが事前の想定であれば、人はある程度は冷静にそれについて考えることができる。
だけど、稀にしか起こらないことがふいに起ってしまった場合、それが「起こった」という事実がとても強いインパクトをもって人の気持ちや思考を支配し、それが「稀にしか起こらない」というもう一方の事実が軽くみられてしまいがちだ。
それがどんなに稀なことであっても、自分の下でそれが起ったという当事者であれば、それが重要であることは当然だろう。稀であろうとありふれていようと関係なく、わたしの下で起きた出来事はわたしの一回限りの人生において決定的に作用してしまう。
だが、稀な出来事は、出来事の強烈さにおいて、そして、稀であることの希少性において、当事者ではない人々にまで広く伝えられる。その時、出来事の強烈さと、その情報の拡散力によって、それが「稀にしか起こらない」という側面が後退する。
近所のトラブルから殺人が起きたというニュースを聞くと、近所のトラブルを抱える多くの人は不安を感じるだろう。しかし、近所のトラブルがありふれたものであることに対して、近所のトラブルから殺人まで発展することはきわめて稀にしか起こらない。逆に言えば、稀しか起こらないことが何か一つ起ってしまうと、それが「起こってしまった」ことで、本来ならば必要のない不安や緊張が、広く伝播されてしまう。
この時に作用する、感情移入や物語的な想像力は、確かに、自分とは異なる立場にいる人の心情を理解すためにはとても重要なことだ。つまり稀な立場に置かれた他者を理解するためには必要だ。だが同時にそれは、必要以上の心配、必要のない恐怖まで惹起してしまう傾向がある。その心配は、「もし宝くじが当たってしまったら親戚との関係が悪くなってしまうかもしれない」という心配と同じくらいに、する必要がないものかもしれない。
「起こってしまったこと」の強さは、それよりずっと分厚くあるはずの「起こらなかったこと」の確かさを見えなくしてしまう。人の思考は、起こってしまったことばかりを、どうしても気にしてしまう。そしてそこで惹起される過剰な不安や恐怖は、人の判断をしばしば間違えさせる。しかも、不安や恐怖は空気として広く拡散されているから、その間違いは多くの場合、集団的な判断の間違いとなる。
「事実として起こってしまったこと」の強さに抗して、それが多くの同様の場面では「起こらなかった」のだというもう一つの事実の厚みを、どうすれば手ごたえと実感をもって感じることができるのか。不要な不安や恐怖に飲み込まれないためには(そして、必要な不安や恐怖をきちんと察知するためにも)、それを考える必要があると思う。
(何も起こらなかったけど、実はこんなことが起ったかもしれないのだ、という形の――警鐘を鳴らす的な――フィクションはつくりやすいけど、何かが起ってしまったけど、実は何も起こらなかった「別の場合」が無数にあり、そっちの方こそがリアルなのだ、という形のフィクションは難しい。)