●参考文献のところにドイッチュの『世界の究極理論は存在するか』が挙げられていたので興味をもち『夢見る猫は、宇宙に眠る』(八杉将司)というSF小説を読んでみた。正直、そんなにおもしろい小説とは思えなかったのだけど、ただ(ネタバレになりますが)、最後のオチのところを読んで、ああ、これを書いた人にもきっと「この恐怖」があって、それがこの話を書かせているのだろう、と思った。
「この恐怖」とは、物心ついた頃から何度もおそわれ、この恐怖におそわれるとあまりの恐ろしさに、もうどうしようもなくなってしまうような恐怖で(しかも、染まってしまうとこの恐怖からは逃れようがない)、それは、この宇宙には「わたし」一人しか存在しないのではないか、そして、「わたし」は決して死ぬことも消えることもできないままずっとありつづけるのではないか、という恐怖のことだ。
(このような恐怖が「共有される」というのも奇妙な感じだが、しかし、共有されることによって「この宇宙にはわたし一人しかいないのではないか」という恐怖が解消されるわけではない。)
意識というものが生まれてしまった以上、それが完全に消え去ることはなく、そしてどこかに「意識のようなもの」がある限りそれは(萌芽的なものにしろ)「わたし」という形式をとるのだとしたら、それが「わたし」と無関係とは考えにくい。
おそらく「このわたし」は死ぬであろう。しかしそうだとしても、「わたし」という形式が死なない限り「わたし」は死ねない。そして、この世界には様々に異なる「このわたし」がおり、それぞれが(内容的には)交換不可能な(相互理解不能な)ユニークさをもつだろう。しかし、それらのわたしが皆「わたし」という形式でしか現象できない限り、その都度においてはそれが「わたし」であるしかなく、つまり結局このわたしなのだ(そもそも「このわたし」の内にすら、相互リンクの切れた様々な不連続があるはずなのに、「このわたし」なのだし)。だから、「わたし」は常に(永遠に)宇宙にたった一人しかいないことになる、と言えてしまうのかもしれない。幼い頃の素朴な恐怖は現在でも、そのように多少理屈っぽく変形されて持続している。
「この恐怖」は、すくなくともぼくの生においては、もっとも古くからある、もっとも強い直接的な感覚であり、ここから逃れるためには、「この恐怖」の根元にある(意識以前の)認識=独我論が完全にまったく間違っていると納得できるロジックが必要だが(ぼくはそれを見つけるために生きてるんじゃないかとすら思えることがある)、残念ながら今までのところ、そのようなものに出会えてはいない。
このような、強力な独我論の問題は、それが「正しい」かどうかというところにあるのではなく、それを「完全には否定し切れない」というところにある(ぼくはこのような話を「正しいもの」として主張しているわけではなく、それをなんとか否定したい)。「この恐怖」は、独我論によって導かれるのではなく、原初的なものであり、「この恐怖」こそが独我論を導くのだから、それを否定し切れない以上、独我論の幽霊(恐怖)はどこまでもつきまとう。