●「新潮」9月号に西川アサキさんが、〈「汎用人工知能の実現後について妄想する知性」をシミュレートする汎用人工知能〉について書いている。つまり、「人間を超える知性をもつ人工知能が出来てしまったら世界は一体どうなるのかを考えるわたしたち」という存在による思考を、既に人間を超えてしまった人工知能が事後的にシミュレーションするとしたら…、という状況を妄想するということ。
この時、人工知能は自分自身の存在を一時的に忘れなければならない。自分自身こそが、「汎用人工知能実現後」という解それ自体であるから、自分を忘れない限り「解を先取り」してしまうことになる。だから、「汎用人工知能の実現後について妄想する知性」をシミュレートしている人工知能の思考は、基本的に現在のわたしたちのする思考とかわらないものになる、と。
この考えは、以前に西川さんとした別の話を思い出させる。「神」は、全能であるがゆえに「限定された視点」を知ることができず、だからそれをシミュレートするために「この宇宙」をつくり、無数のわたしたち(全能ではあり得ない視点)をつくった、と。
「新潮」のテキストの話をつづけると、現在のわたしたちの人工知能についての妄想と、「汎用人工知能の実現後について妄想する知性」をシミュレートしている人工知能の思考とに違いがあるとすれば、その妄想の数やバリエーションの多寡であるだろう、と。人工知能は、人類全体によってではとても実現できない程の、多数の「わたしたちの妄想」のあり得る可能性のパターンを実際につくりだすだろう。
この話を先の「神」は話とつなげれば、神が全能であるならば、わたしたちが住んでいる「この宇宙」だけをつくりだしたと考えるのは不自然だということになる。神はおそらく、可能性としてあり得るすべてのパターンの宇宙を創り、ありうるすべてのパターンの「限定された視点」をシミュレートするだろう。その視点の数は、この宇宙に実際にあるものよりずっと多いはずであろう、と。それは、物理学的な多宇宙論と矛盾しない。
●ここからは西川さんのテキストから離れたぼくの妄想だが、汎用人工知能によってシミュレートされた、基本的には「わたしたちの妄想」と同質の、しかし実際に「わたしたち」によっては実現されなかった多数の(可能性としての)「妄想」は、シミュレートされることによって「実在する」ようになるとは言えないのだろうか。そして、それをシミュレートする時に人工知能が自分自身を忘れて視点を限定していたのだとしたら、その「妄想」は「人間」としてなされたわけだから、人間の妄想と同じであり、つまりそこには人間が(すくなくとも「妄想する」人間の「精神」が)「存在する」とは言えないだろうか。そう言えるとしたら、人工知能によって新たな人間(の精神)が「創造された」ことになり、(人間がつくった)人工知能が文字通り「神」となるということにはならないだろうか。
●ここからはまた別の話。もし、人間を超える汎用人工知能によって人間から「知性」や「創造性」が剥奪されるとすると、その後に残る「人間に固有のもの」とは、コミュニティ(の作法や所作のようなもの)と身体(暴力やセックス)ということになるのかもなあ、と、ちらっと思った。勿論それらもシミュレーション可能なのだろうけど、そこには少なくとも「幻想」が残り得る感じがする。ある種の精神論―根性論はかなりしぶといのではないか。つまりそれは、リアル・ヤンキーというかハード・ヤンキー(マイルド・ヤンキーではない)的な世界ということになる。人間性は、地下格闘技とかAVのような世界にのみ残る、と。そういうのはちょっと勘弁してほしいのだけど。