●たとえばサンデルが『これからの「正義」の話をしよう』に書いていることは、「最大多数の最大幸福」みたいな功利主義を批判して、そんなこといって「個」の幸福に基盤をおいても、理念(正義)がなければなにが幸福なのか(例のトロッコのサンデル問題のような場面を考える時に)決められないし議論すら出来ないとし、そして、その理念の根拠は、(近代的な普遍はなりたたなくて)煎じ詰めれば「共同体」が長い時間をかけて醸成してきた規範に求めるしかないでしょ、ということだろう。
(仮に、人間を超える人工知能が出来たとしても、グーグル人工知能と、EU人工知能と、中国人工知能と、イスラム人工知能とでは、まったく異なる知性となるであろう、という説があるが、これも一種の、というか究極の、共同体主義なのだろうか。この時、相容れない人工知能同士は互いに激烈なハッキング競争を行い、莫大なその能力のほとんどをハッキング競争のために使ってしまうのではないか、という、笑えない笑い話がある。)
ここで、サンデルの共同体主義に納得できないとしても、功利主義が「究極の選択」のような場面では判断停止に陥ってしまうという点については確かにそうだろう。その時、正義の根拠はどこにあり得るのかということは、簡単には考えられない。
(正義の根拠を、自然―進化―脳におく、科学主義的な立場というのも考えられる。人間は、進化の過程によってかたちづくられた固有の生得的な組成があるのだから、それを科学的に自覚し、それに対して自然で無理のない制度のあり様を探して、その範囲で正義を定めつつ、破壊的ではない程度の逸脱は「多様性」として容認する、という感じになるのだろうか。これもまた、理念としての正義を避ける功利主義だと言えるが、その「功利(最大多数の最大幸福)」の根拠が「物理的世界」に置かれることで定量化可能なものとなる。「哲学的」にはあまり面白くない話なのだろうけど、今後この流れはとても強くなるのではないか。歴史ではなく自然史=進化を、そして、政治ではなく生態学を、と。)
(「科学」という権威が政治的に利用される危険は常にあるにしても)
(歴史と自然史の間、政治と生態学の間、を扱い得るものとしての人類学、というのはあるかも。)
(とはいえ、前述したように、シンギュラリティ後のAIでさえも、自らの出自となる文化に規定されるのだとしたら、それは科学主義に対する共同体主義の勝利ということになるのだろうか。人間を超えたAIもまた政治をするしかないのか。)
サンデル的な共同体主義は右翼に分類されるのだろうが、たとえば松尾匡の『新しい左翼入門』には、左翼にとって正義は「平等」であり、右翼にとって正義は「最後まで同胞と責任を共にする」ことであり、どちらも等しく成り立つが、両者を混ぜ合わせることはできない、と、明快に書かれていた(左翼は、世界を上と下に分けて「下」につく者であり、右翼は、世界を内と外とに分けて「内」につく者で、世界の分節の仕方が違う、という区別も書かれている)。混ぜ合わせることは出来ないということは、サンデル問題的な極限状況において、左翼には「平等」をとることによって「同胞」を裏切るという選択を迫られる場合があり、右翼には「同胞」をとることによって「平等」を裏切るという選択を迫られる場面がある、ということだろう。非常にざっくりとした見立てではあるが、サンデルより説得力があるように思う。
このざっくりした見立てを受け入れるとして、では、この前提のもとで、左翼であるべきなのか右翼であるべきなのかは、やはり簡単には決められない。ここで言われているのは、左翼と右翼の正義をめぐるコンフリクトは根本的なもので、解消されないということだ。
(ここで、平等とは基本としては個の平等であり、同胞とは共同体に関する価値だが、しかし、そうだとしても、たとえば「平等よりも同胞を重視する」という価値観そのものが、必ずしも共同体からやってくるわけではないことは重要ではないか。共同体主義もまた、正義の根拠として共同体の規範を「選択する」ということだから、自然な共同体との繋がりからいったん切れて、改めてそれを選択している。共同体主義も、共同体の「外」の視点からもたらされる。自律的な検討と熟慮の結果として右翼であろうとする、ということは可能だし、逆に、たんに、左翼的な環境(空気)のなかで育ったから自然に左翼的な価値観をもつ、ということもあるだろう。)