荒川修作小林康夫の対談本(『幽霊の真理』)を読んでいた。
90年代はじめ頃からずっと、アラカワには常に関心を持ち影響を受けつづけてきたのだけど(作品からというより、主にその発言からということになるが)、それでも、半分は分かるけど半分は分からないという感じだったし、強く魅了されながらもアラカワ信者としてのめり込むことは避け、途中に消波ブロックを置いた影響という感じだったと思う。
だけど、今になって主に90年代に行われた対話を読むと、アラカワの発言の八割以上はすんなりと理解できてしまうし、大方のところで納得もしてしまう。自分が何時の間にこんなにもアラカワ寄りになってしまっていたのかと戸惑う。
●例えば、人工知能や高度化する計算機への関心の裏には、恐らくアラカワが響いている。以下、対談でのアラカワの発言。この発言に共感し過ぎる自分がヤバい。
《(…)われわれの肉体というやつ。外側のものをいつもリュックのように背負っている。そして動いたり感じたりできるものというのは、そんなにないんだね。そうすると、われわれが言う肉体というは、いわゆる自然と言うものから切り離すことはまず不可能なんだ。不可能なんだけれども、それと同じような場を、人間によって、人間のこの肉体と感覚によって提出することはできないか。いずれそれが自然によって壊されるにしても、ひとまず提出して、人間というものからほど遠く、いわゆるリゼンブランスもアフィニティもないものでありながら、ファンクションとしては、この人間と言われている肉体および肉体を司っているであろうものに似てきたら、自然に滅ぼしてもらってもけっこうなんだ。ということは、われわれが毎秒つくり上げている新しいサイト――場、あるいはところ、もっと極端に言うと、住所ということなんだ、ぼくには――、人間の心臓の鼓動より、光の速さより速いであろうサイトをどのように人間がつくることができるかによって、いままでの人間の営みの内容が変わるんじゃないか。もう人間の歴史なんか、ぼくの眼中にはないんだ。だから、マイクロスコピックだけれど、これはいずれどこにも流通可能なものだから、人工的につくられたアトムでけっこうだ。自然に与えられた原子とは関係ありませんよ、と言いたいわけ。》(「共同の場があれば出発は可能だ」)