(昨日のつづき)
●House SAは素晴らしかった。この空間に関して、まずぱっと三つくらいの要素を考えることができる。
(1)いくつかの異なる場面がつくられている。そして、(2)その異なる場面が、家全体が緩やか螺旋状のスロープになっているような構造によってつなげられ、関係づけられている。
玄関を入ると山の中腹のような空間で、上と下の二つの方向へと伸びるなだらかな傾斜(階段)が伸びている。これは階段でもあり傾斜でもある(階段でもなく傾斜でもない)ようなものであり、このなだらかな高低変化が家全体の基本的なあり様を決定している。
それを下へ向かうと、奥にキッチンと畳のある空間があり、この家でもっとも内密的な空間になっている。この家には空間を仕切るドアが(トイレや風呂以外には)ほとんどないので、玄関から素通しなのだけど、なだらかな傾斜を挟んだ距離と、狭いところを通って行くと奥が広くなっていることで、一定の閉ざされた感じが生まれている。それと、キッチンのある場所のみが地下であり、全体として開口部(窓)が目立つ家のなかで、例外的に窓が少ない(小さい)というのも親密さの一因だと思う。
玄関から上へ向かって行って突き当たると、この家で最も開放的で大きな空間に突き当たる。玄関から見ると、素通しであるにもかかわらず、下のキッチンも、上の開けた空間も、その表情のほんの片鱗を感じるのみで、実際に傾斜の先に突き当たってはじめて、それぞれの場面が開けるようになっている。なだらかな高低差と突き当たることで場面が変わるという原理が、場面を隔て、か繋いでいる。
玄関から上った大きく開けた空間それ自体も、ゆるやかな傾斜(階段)となって上へ繋がっている。玄関からの傾斜が山の細い小道だとすれば、この空間の傾斜は丘陵地の開けた場所という感じだ。三つの方向で窓が大きく開かれていて、もう一方も玄関からの階段(ここも窓がある)に繋がっているので、とても開放的で、窓からはこの空間の相似形のような丘陵地帯が見える。
この空間は突き当りでもう一度折れ曲がっていて、そこは収納とトイレに挟まれたやや閉じた表情のある場面になっている。ここの閉じた感じは、地下の親密な感覚とは違って、開けたところからちょっと隅に隠れるという風になっている。地下が洞窟的で、開けた空間が丘陵地的、玄関からのアプローチが小道的だとすれば、ここは岩がせり出して庇のように影をつくる場所とか、生い茂った木陰の下のような感じだろうか。
そしてその奥にまた一段高くなった、この家の一番奥であり上である畳の場所がある。ここを超越的な場所と言ってしまうことにはためらいがあるが、そういう感覚がまったくないと言うこともできないと思う。
(加えてもう一つ、この家全体の折れ曲がる螺旋空間に絡む二重のらせんのように、スロープから庭へと上りながら曲がり込む外の空間が絡み付いている。)
だけど、このように記述してしまうと、この空間をあまりに物語的に把握することになってしまう。そこで、(3)複数の方向からの力が、螺旋的空間を刺し貫いている、という点もみなければならないと思う。この点は、昨日の日記に掲載した模型を見ると一目でわかると思う。
この家が建っているのが傾斜地であること、壁が基本的に敷地の形に添って立てられていること、太陽光パネルの設置のために屋根を真南に向けていることなどの、様々な外的な条件が、複数の場面とそれを繋ぐ螺旋構造という原理と、様々な相互作用を生み出している。
これを、理念的な構造と現実的な条件の対立や拮抗として捉えるよりも、その両者の協働として考えた方がよいのではないかと思う。この空間は、現実的な諸条件との間の調整や折衝によってこそ、複雑さや豊かさを獲得しているのではないか。というか、人がこの家を経験するということは、理念的な構造と現実的な条件との折衝と調停を、そこにいる人の感覚が常に行っているということなのではないか。
(あと、これは同じ時に見学していた建築家の小野弘人さんが言っていた事だけど、この家は、外ら見ると、壁にいくつかの穴としての窓が穿たれているという印象なのだけど、中に入ると、柱以外はほとんど開口部(窓)で、窓ばかりという印象を受けるほど開かれた感じがあって、この、外観と内観との乖離がすごい。この乖離そのものが、ある種の内密性――外に開かれていることを、内にいる人だけが分かる――の表現であるのかもしれない。例えば、通勤のために毎日この家の前を通っている人でも、中がこんなになっているとは想像も出来ないと思う。)
●それに比べると、HUT AOのつかみどころのなさ、とりとめのなさ、あるいは軽やかさは、ある意味難解であるという感じさえ受ける。(1)(2)のような物語的把握を許さず、(3)のような、斜めに交差する複数の力の要素というのも、分かり易くは表れていない。だけど、House SAと比較して考えることで、その「とりとめのなさ」に多少は迫れるのではいか。
まず、AOもSAと同様、玄関を入ると一階へと上る緩い傾斜階段と、地階へと下る階段という二つの方向へ向かうアプローチがある。そして同様に、地階にはプライベートなスペース(おそらく寝室となると思われる)と水回り、さらに下に倉庫のような天井の低い空間があり、一階へと上ると最も開けた空間になっている。玄関から螺旋状に上と下へ空間が連なっているという構造は似ている。
だけど、SAでは、地階のキッチンと開けた空間は、長く緩やかな折り返す傾斜によって隔てられ、かつ繋げられていた。それに対しAOでは、地階と一階部分とは隔てられた印象が強く、繋がっている感じは少ない(ドアもあり、それを閉ざすこともできる)。地階は、開かれた一階部分よりも、むしろ外と直接繋がっているように感じられた。しかし、繋がりのないような地階と一階が、曇りガラスのようなガラスパネル(何と言うのか分からないけど)、白くペイントされた木の柱、そして玄関から一階に上る傾斜階段が天井部分に影響すること等によって、貫かれているような印象を受けるつくりになっていた(ベランダ脇の空間とも、白い木の柱の印象によって繋がっている)。つまり地階は、空間的には閉じている(分離している)感じが強いが、想起や連想、反響によって一階より上の部分と繋がっている。
(さらに、曇りガラスのようなガラスパネルは、確かSAでもトイレの壁などとして使われていたものと同じだと思われ、その意味では、SAとも想起や連想として繋がっている。)
もう一つSAと異なっているのは、SAでは高低変化はどこも緩やかであり、少しずつ高くなり低くなっていたが、AOでは半階分の大きなズレが際立つようになっていた。これは、螺旋構造を小さな土地のなかにコンパクトに圧縮した結果かもしれない。その意味でこの半階のズレの強調は、SAで、ソーラーパネルの都合で屋根の向きがズレていること等と対応する、現実的な条件よってもたらされた現われの一つなのかもしれない。
それによって際立つのは「高さ」の違いだろう。SAにおいて、高さの異なりはまず場面を分けるものであり、意味的なものを帯びている感じがあった。対してAOの高さの違いは、文字通り高さの「違い」であり「ズレ」であり意味ではなく、だから、一番高いところ(AOでは屋上)に超越的な感覚があったり、地階に洞窟的な感覚があったりはしない(だが、地階は――分離されていることによって――プライベートな感覚を帯びてはいる)。意味の違いはむしろ面積によってもたらされるように感じた。例えば、ベランダ脇の空間は、そのスケール感によって、木陰的な感覚を帯びている、というように。
(最も閉じた地階――とはいえ外に向かってはけっこう開いている――と、最も開いている一階と中二階を合わせた部分、中間的なベランダ脇、そして外へ繋がるベランダ。一階と中二階との高さの違いは、落差というよりもゆるやかに昇ってゆく感じで、SAの丘陵に向かって開かれた大きな空間の感じをコンパクトにして、さらにニュートラルにしたようにも思える。)
(これはほぼ妄想の範疇だけど、AOの木製の床は、SAの空間を特徴づける木製の棚を想起させるようにも思う。)
●SAでは、様々な力が至る所で斜交している印象があったが、AOではほぼ直交している印象がある。だけど、AOの内部に入って最初に感じるのが傾斜した階段を踏んだ時の身体感覚で、この時の「傾いている(斜交)」という感覚は、AO全体としては高さのズレとして反響しているように思えた。だとすれば、玄関を入ってすぐにあるこの緩やかな傾斜する階段は、視覚的にというより、身体感覚的にこの家の空間を統御していると言えるのかもしれない。