坂本一成設計の「egota house B」の見学会に参加させていただいた。
●建築物を観るというのはどういうことだろうか。今日思ったのは、だいたい三つくらいの層があるということ。(1)自分の身体で建築物の内部を歩いて空間を味わうように感じ取ること。(2)空間を歩き回るのと同時に図面などを参照して、その空間の構造を頭のなかで組み立てること。(3)そのようにして組み立てられた空間のなかに、実際に人が住むということはどういうことかをイメージすること。三つの層すべてが「空間」であり、しかし、それぞれ空間としての形式(成り立ち)が異なる。これらの三つの層は、層をつくると同時に絡み合ってもいて、その三つの層がどのように絡み合い、あるいは、どの層が際立って感じられるかによって、その都度、「その空間」が違ったものとしてたちあがる。
この時空間は、身体の外にあって感覚器官によって捉えられるものでもあり、頭のなかにあるもの(頭のなかで形成されつつあるもの)でもあり、身体の動きとしてあるもの(運動感覚として感覚されるもの)でもあり、それらの交錯と相互作用によってたちあがるものと言える。
●半階分ほど地下に埋まる感じの、地下一階、地上三階の四層になっている賃貸の集合住宅で、全部で五室ある。部屋を繋ぐ廊下などの共有部分がまったくなくて、すべての部屋が外から直接入ることのできる独立した入口をもつ。1室をのぞいた4室は、交差メゾネット方式になっていて、例えば、部屋Dと部屋Eは二階、三階を交差するように共有し、二階は南北で部屋DとEを分け、三階は東西で分けている(ねじりながら空間を共有し、分節している感じ)。部屋Dは西側の外壁に面した外階段を昇って三階に入口があり、部屋Eは東側の外階段を昇って三階が入口となるから、建物の反対側から出入りすることになる(この階段も、部屋Dへの階段は南から北へと上っていて、部屋Eの階段は北から南へと上っているという風にクロスする感じになっている)。つまり、部屋Dと部屋Eに住む住人は、密接に絡まり合うようなクロスする空間に住む隣人であるにもかかわらず、互いにほとんど顔を合わせることがないように設計されている。
実際に部屋に住む人の目線から考えると、彼らは自分の部屋しか知らないのだから、隣人と顔を合わせることの極端に少ない独立性の強い空間に住むことになる。しかし実際は(例えば彼らの生活を神のような視点から見るとすれば)、この二つの部屋は、互いに鏡に映したように対応し合って(かつ、絶妙にズレて)いるし、相互陥入的に絡み合っている。彼らは知らず知らずのうちに、密接に絡んだ空間で行動し、いわば、互いに対して互いが透明人間であるかのようなやりかたで空間を共有しているとも言える。あるいは、同じ空間を、パラレルワールドの世界Aと世界Bとで共有しつつ分節しているというように。
この仕掛けを知っている人(設計者やこの建物を「建築作品」として観る人たち)は、仕掛け(というか、空間の構造)は知っているが、実際にそこで暮らすわけではないから、その空間での具体的な生活のディテールは知らない。一方、そこで暮らす人たちは、当事者としてそこで生活するのだけど、そのような仕掛けは知らない(あるいは、意識しない)。いや、たとえその仕掛けを知っていたとしても、相手の部屋の生活は知らないから、その「絡み合い」の全容を知ることはやはりできない。誰であっても、知っているのはその一部だけであり、すべてを把握する者はどこにもいない。そして、独立しているのに絡み合っている、絡み合っているのに独立している。この感じが、ぼくにはとても面白かった。
だけど、部屋Dの住人と部屋Eの住人とが、まったく分離させられているというわけでもない。例えば、最上階の西にある部屋Dのバルコニーと、東にある部屋Eのバルコニーは、その北の隅っこで、ほんの少しだけ相手方のバルコニーが見えるようになっている。それはほんとにちょっとだけなのだが、そのちょっとした隙間のようなところから、隣人の背中の一部や肘くらいはちらっと見えるかもしれない。いや、その隙間がほんの少しだからこそ、なんとなく覗き込むようにしていて相手方と目が合ってしまうこともあるかもしれない。そのようなやり方で、(チラチラッと映る影や気配のように)隣人を意識するという感覚も面白い。
(例えば、他の部屋の住人が独立した入口に至るために階段を昇り降りする、その足元だけが別の室内の小さな窓から見える、という形で、他の部屋の住人の存在が意識されるようになっていたりする。)
●部屋BとCは、地下と一階とを交差メゾネットとして共有する。部屋Bの入口は、西側の外階段を半階分下った地下にあり、入ってすぐ右手に狭い部屋とバス、トイレがあり、階段でキッチンのある広めの上の部屋へと上って行く。部屋Cは、北側の外階段を半階分上った一階に入口があり、入るとすぐキッチンのある広い部屋があって、そこから左手に折れると地下の部屋への階段がある。だから、部屋Bと部屋Cとは、下って上る、と、上って下るという、動線としてもクロスしている。
●この複雑な建物のなかで、五つの世帯の人たちが、どのように動き、どのように空間的に交錯しながら(交錯していることを知らないままに)暮らすのかを想像するのはとても面白い。しかし、それを知る(観る)ことのできる人はどこにもいない。
●この建物は、共有部分がなくて、どの部屋へも、直接そこに入る入口がついている。それは言い換えれば、例えば部屋Aから部屋Cへ移動しようと思ったら、いったん完全に建物の外へ出なければならないということだ。この建物は集合住宅だから、部屋Aから部屋Bへ移動するということははじめから想定されていないということでしかないかもしれないが、しかしそれは、この建物が、外観としては「一つ」の建物なのに、実際の機能としては「五つ」のバラバラの建物である(バラバラな建物が一つの空間に相互陥入している)ということを意味している。
つまり、視覚的な制御と機能的な制御が大きく乖離しているということだ。外観を観るだけだと、周囲の建物よりは趣味がよく洒落ているとはいえ、普通の建物とそう大きく異なるわけではない。高さや縮尺、形などもすごく普通なのだ。この建物の前を通るだけの人は、この内部が、交差メゾネットになっているとか、それぞれの部屋に直通する独立の入口があるとか、あるいは、他の建物と高さが半階ズレているので窓からの眺めが独特であるとか、そういう「普通ではない」機能を持っているなど予想しないだろう。
普通ではない特異な機能は、その内部に入り込んだ人にしか開示されない。つまりこの建築物は、「外」に対して(外観として)自らの特異性を強くはアピールしていない(軽くはアピールしていると思うけど)。内に閉じていると言うと聞こえが悪いけど、この「内に秘めている」感じがぼくにはとても魅力的だ。この「内に秘めている」感じは、それぞれの部屋においても言える。部屋Cの特異性は、部屋Cを借りる人にしか開示されず、それは部屋Bの特異性とは違っている(しかし、対応関係はある、とはいえ、それを住人は知らない、住民は「秘密の---自覚されない---対応関係」のなかで暮らす)。とはいえ、外から見れば、それは一つの立方体に近い箱におさめられた一つの空間でしかない。
●外観の普通さ、内的構造の複雑さ、そして、その構造を具体的に生きる人の経験の限定性(「この建築の経験」は決して全体化されず、常に断片---この部屋---に留まり、秩序は顕在化しない「秘密の秩序」となる)。このような三つの事柄が「一つの場所」に重ね描きされることによって、その層のズレや重なりによって生まれるのが建築空間ということなのだろうか。
●「egota house B」は、2004年に竣工された「egota house A」の隣に建っている。時間が経過し、既に人が生活している「A」と、その隣に建つ真新しく未だ無人の「B」との対比も面白い。作品としてみると、「B」は同様のコンセプトをもつ二作目であり、A→Bという時間の推移が感じられる(一作目の硬い強さに対する二作目の柔らかさ、という具合に)。しかし同時に、既に人が住んでいる「A」は、未だ無人の真新しい「B」の未来の姿とも言えて、そう考えるとB→Aという風に時間の流れが逆転する。