●「建築と日常」をつくっている編集者の長島さんに誘っていただいて、坂本一成の初期作品「水無瀬の町家」(1970年)と「散田の家」(1969年)の見学に同行させてもらった。「散田の家」は坂本一成の最初の作品。駅で待ち合わせして、まず「水無瀬の町家」に、次に「散田の家」へ。住宅建築は人が住んでいる場所なので観られる機会は限られているのだけど、スイスから来た建築を学んでいる学生の団体が見学に来る日で、その団体が来る前に少し時間をつくっていただけたので観られた。
●西八王子には二十年以上住んでいたのだけど、驚いたことに、「水無瀬の町家」はぼくが大学を出て最初に住んだアパート(K.K.の「ワラッテイイトモ」に出てくるアパート、今はもうない)の、ほんの目と鼻の先で、毎日のように通った散歩コースから10メートルくらい引っ込んだところにあって、「散田の家」も、その次に住んだアパートから徒歩五分くらいのところにあった。「こんなに近くにあったのか」、と。「散田の家」は、通りからやや奥まったところにあるので知らなければ気づけないけど、「水無瀬の町家」の前は何度も通っているはずだし、目にしていたはずなのだが。
●「水無瀬の町家」。写真や図面は、本とか展覧会とかで見ているのだけど、実際に観なければわからないのは絶妙なスケール感だと思った。外観に関しては、写真やその他の情報からイメージしていたものとそう大きくズレはなかったけど、内部の、あらゆる要素がきゅっと小さめのスケール感で絶妙のバランスが実現されているこの感じは、写真では伝わらない(写真は、視覚情報を写し取ることには優れているが、空間を写実することが得意なメディアではないと思う)。この、やや小さめのスケール感と美しい比率は、空間のなかにいる人の振る舞いというか、佇まいをある程度規定するように思う。この空間のなかでは暴れたり大声を出したりすることはそぐわない。たとえば「代田の町家」(1976年)でも、個々の構成要素のスケール感には独自の「やや小振り」な感じは共通しているけど、「代田…」では空間全体の感じとしてはもう少し開けて、あっさりしている感じがした。
この、小ぢんまりとした静謐さ、親密な感じは、ぼくが観た他の坂本作品にくらべてやや閉じた(外から守られている)印象が強いことと関係があるかもしれない(「House SA」の一番低い場所にちょっと近い気もするが)。そしてそれはコンクリートという素材とも関係していると思った。
個々の部屋の天井の低さと小ささによる親密感、籠もっている感と、それぞれの空間に穴が空いていることで籠もりつつも他の空間との関係が意識される感じ。建物全体として一つの大きな空間であってそこに個々のスペースが配置されている感じがあることで、低い天井やスケール感の小ささを狭さとして感じさせない開放感がつくられつつも、空間全体としては小振りなので全体としても親密感、籠もっている感が反復される。
(窓の高さは、外から見ると高めの位置にあるが、内側から見ると二階の窓なので部屋の低めの位置にある。前の通りを見下ろす時に、窓もまた見下ろす感じになる。内から外への視線はあるけど、外から内への視線は遮断する。窓は外に開いているものなのだけど、窓の高さによって外から守られている感じ。)
そして、他の作品とちょっと違うもう一つの要素として垂直性を感じるところもある。奥の空間はそうではないが、玄関のあたりの吹き抜けには、天窓から光りが落ちてくる感じと、屋根の形を反映した尖りの影響もあって、かるい垂直感が生じている。この垂直性は、玄関に居る時よりも、二階に上がった時に感じられた。それは強い象徴性を帯びるような性質のものではないのだけど、外観が、二階建てとしては低く、横に長いという印象のシルエットなので、この軽い垂直性は、内観と外観とのギャップとしても機能している。
この建物の外観の印象は、道に沿って立てられたコンクリートの壁に屋根が乗せられて、妙な高さのところに出っ張った窓があるという感じで、なんとも妙な感じで、しかも銀色にペイントされている。そっけないようでいて気になる、変わっているのだけど目立つというほどでもない、という、美的であることを絶妙に外した感じで、この外観の内部に、うっとりするようなあんなに美しい空間があるとはちょっと想像できない。
外部は銀色に、内部は白くペイントされていという違いはあっても基本的には同じ打ちっ放しのコンクリート(内部では板が貼ってある部分もある)なのに、外部は無骨でごつごつしていて、内部は非常に繊細で美しいと感じられるのは、物質の表情よりも空間の比率が美しいということなのだろう。外側がロバート・ライマンで内側がマティスという感じ。
●「散田の家」。正方形の土地に建つ立方体に近い建物で、中心に太い柱があってそこから四方に梁が延びている、という求心的な構造なのだけど、実際に見てみると求心性のようなものはほとんど感じられない。中央の太い柱もなぜかぐぐっと上に延びるような垂直性をあまり感じない(どちらかというと「水無瀬の町家」の吹き抜けの方が「上へ伸びる」を感じさせる)。建物全体として一つの大きな空間で、そこに部屋や宙に浮いた床が配置されるという構造は「水無瀬の町家」と共通するけど、空間のスケールが大きいことで緊密さや静謐さよりも開けた感じがする。
ざっくりとした印象だが、「水無瀬の町家」がヨーロッパの小さな教会っぽいとすれば、「散田の家」は日本の古民家っぽいがらんとした感じ。中央の柱は、構造を支える大黒柱というより、囲炉裏で鍋を吊すために天井から垂れている紐に近い感覚を受ける。
おもしろかったのは、天井の高さによって空間が分節される感じ。「散田の家」は、玄関脇に一つ閉ざされた部屋(キッチン)がある以外、一階の部分はすべて仕切なくつながる一つの空間なのだけど、(1)上まで吹き抜けているところ、(2)二階の床があるところ、(3)二階の床より一段高くなっているところ(新しく増築された二階の部屋)という風に、三種類の天井の高さがあって、一つの空間がそれによってなんとなく三つの部分に仕切られている感じがあった。壁や仕切りはなくつながっているのだけど、天井の低い部分は高い吹き抜けたところより親密な、籠もった感じになる。これは、天井の高いスペースは玄関に近く外庭に面していて、低いスペースは奥という感じで中庭に面しているという違いもあるかもしれない。
「水無瀬の町家」も「散田の家」も、完成後かなり経ってから別棟が追加されている。ただ、「水無瀬の町家」では、別棟の追加によって空間のそれ自体として閉じた(自律した)感じにあまり影響がないように感じられるのだけど、「散田の家」では、別棟があり、中庭があるということを「知る」ことによって、内部空間の意味付けというか、色づけに影響があるように思われた。それにより、表と裏、前側と奥という意味が空間に強く付与される(「水無瀬の町家」では、入り口と奥という構造は空間自体にあらかじめ組み込まれているから、別棟の存在でそれが揺らぐことはない)。立方体であり、中央に柱があり、そこから四方に梁が延びているという閉じた求心的な構造よりも、一方が表に面していて、もう一方が裏に面した「奥」であるという意味が強くなるように思われた。「散田の家」で、天井が低くなっている奥から、高くなっていて表庭に面した方向を見る時の感覚は、どこか、「代田の町家」の、一番奥の座れるようになっている位置から、中庭を通して表の方を見る感覚と近いように感じた。