●『あなたのための物語』(長谷敏司)を読んだ。
読んでいる間何度か「自分が死ぬ」ということへのリアルな恐怖に襲われた。それは、死を目前とした主人公に感情移入する、あるいは同調する、ということとは違っている。それは、おそらくずっと自分のなかにあるのだけど、普段はそこに蓋をしてできるだけ意識の上には昇らないようにしている領域への通路が、この小説をきっかけに開いてしまう瞬間が何度かあったということだろうと思う。その恐怖は抽象的なもので、実際に身の危険を感じた時にあらわれる動物的な恐怖というのとは違う。あるいは、具体性のある身体的苦痛のイメージでもない。「わたしが死ぬ」ということへの恐怖は、「宇宙には果てがない」と想像する時の恐怖に似ている。あるいは、対角線論法とか連続体仮説とかを知った時に感じる恐怖に近い。矛盾するようだが、「わたしが死ぬ」ということを考える時の恐怖は、「わたしが決して死ねないとしたら…」ということを考える時の恐怖とまったく同質であるように思われる。つまりそれはどちらも永遠(というより無限)に対する(それに触れてしまうという)恐怖だと思う。しかしそのような抽象的な恐怖は、具体的に「わたしの死が間近に迫っている」という時にこそ、おそらく逃れようもなく迫ってくるのだろうと思う。間近な死をリアルに意識しない限り気晴らしによって抽象的な恐怖を避けることもできるだろう。抽象的な「わたしの死」への恐怖は、具体的に「わたしが死ぬ」ことの接近によってわたしの前に(おそらく)突きつけられる。
(以下、ネタバレしています。)
●この小説の世界では、人の脳の状態を完全にスキャンして再現することが可能となっている。ある時、ある人がもった感情を完璧に読みとって、その感情をそのまま他の人の脳において再現するというようなことができる(工学技術的テレパシーと言える)。あるいは、自分の脳の状態を自分でモニターして確認し、それを自分で編集することも可能である(無理矢理に「よろこび」の感覚を自分の脳に送り込む、とか)。あるいは、他人の性格や傾向(例えば「楽天的」)を、自分の脳において作動させることもできる。さらに、現在の自分の脳を完全にコピーして、自分の脳とまったく同じ働き方をする(同じ意識を持つ、と言えるのか?)もう一つの「わたし」をつくり出すことさえできる。とはいえ、わたしと同じもう一人のわたしがデータとして生き残ったとしても、「ここ」にいるわたしは死ぬ。
●ほとんどの難病が克服されたという設定であるこの小説の世界で主人公を死に至らせるのは免疫系の病気である。わたしには制御できない「わたしというシステム」がわたしを攻撃し、わたしを殺す。
わたしの内実は変化する。例えば二ヶ月前に保存したわたしの脳のコピーは、現在のわたしの気持ちを理解できない。それはまぎれもなく「わたし」でありながら、「ここ」にいるわたしではない。だから、死を恐怖する「わたし」とは、内実、内容としてのわたしではなく、「ここ」にいて持続するという意味でのわたしであり(つまり「ここ=わたし」という抽象的な形式のことであり)、それは、そのようなわたしを成立させている、「基底材としてのわたし」や「システムとしてのわたし」≒身体だけではなく「中味としてのわたし(情報集積体)」≒精神とも食い違うはずだ。免疫系の病気とは、システムとしてのわたしが、「ここ」としてのわたしを攻撃するということだろう。
●この小説で、わたしのシステム(身体)の変調は、主に内蔵(消化器系)の変調として表現され、嘔吐、腹痛、腹の張り、排便の失調、下血として感覚される。「ここ」としてのわたしを成立させると同時に、束縛し攻撃する「システムとしてのわたし」を、内蔵感覚と排泄感覚によって表現していることが、この小説の(どんよりと重たく淀むような)重要なトーンを決定していると思う。「脳(意識)の制御によってはままならない内蔵」という図式として捉えればありがちかもしれないが、腹の重さや痛さ、排便の不調という感覚こそが「死につつある(「ここ」としてのわたしを強制終了させようとする)」身体を---システムの変調を---表現しているという感じが何ともリアルだと思った。ここで身体的な苦痛は外(環境や非自己)から与えられる感覚ではなく、わたしというシステムがわたしを攻撃することによって生じている感覚(システム‐身体による、基底‐身体への攻撃)である。
●この小説には、脳の状態(発火と神経連結)を完全に記述できる言語というのがでてくる。例えば、ある人がある時に感じた「悲しさ」を、その複雑なニュアンスのすべてを含んだ脳全体の状態として記述できる。そしてその状態を別の場所において(他の人の脳にであれ、人工的な意識体にであれ)再現することで、まったく同じ「悲しさ」を出現させることができる。
感情を完全に記述できるということは、それを翻訳できるということで、人間とはまったく異なる形の知性である人工知能に理解できるような形にさえも「感情」を翻訳することができるということだ。これは逆も言えて、人工知能の「感情」を、人間に理解(というか、この場合ほとんど「経験」と言える)させることもできるということになる。
この時になにが起こるかと言えば、人間と人工知能との相互干渉(影響)であろう。つまり、人工知能が人間に影響を受けて人間的になり、人間が人工知能に影響を受けて人工知能的になる、ということが起こる。
●この小説には二つの異なる「死のイメージ」があるといえる。一方は、内蔵感覚によって示される身体の崩壊であり、こちらは免疫系の変調であり、「わたし」に対する「わたしのシステム」からの攻撃として描かれている。こちらの意味での死とは、「わたしというシステム」にあらかじめ組み込まれて、その一部である(わたしの身体は、いつかは「死ぬ」ようにあらかじめ出来ている)ともいえる。こちらは、身体のままならなさ、苦痛として、執拗に反復的に描かれ、小説の基調となっている。
もう一方の死は、人工知能的感情(無感情)の脳への一方的な流入(による脳の混乱)として描かれる。それは、どこまでも《灰色》で、《意味も意志もすべて滑り落ちて取り戻せない、底なしの空白》として表現される。このような「死」は、身体(身体システムの停止や崩壊)という死とは別種の出来事だし、イメージであろう。死へ向かってゆく苦痛、その苦痛への恐怖といったものではない、前述したような、とりとめのない無限に触れてしまうような、「抽象的なものとしての死への恐怖」を表しているように思った。こちらは、あらかじめ「わたしのシステム」に内包されている死とは別の、「異なるもの」に触れてしまったことで生じる死のイメージ(異なるものに完全に呑み込まれるというイメージ)だとも言える。
この小説のリアリティは、この二つの異なる死のイメージを、現代的、SF的なガジェットを駆使することでうまく重ね合わせることができている(分離と重ね合わせの配置がうまく出来ている)ことによるのではないかと感じた。
●「脳の状態を記述する言語」の存在は、異なる知性の形式の一方的な流入によって「死(無限の一端としての灰色)」を人に経験させてしまう一方で、ある媒介を経由する(制限する)ことで、異なる知性とのコミュニケーションを可能にしもする。この小説は、死につつある人間と、生まれ(成長し)つつある人工意識体との交流の話でもある。異なる形の知性との交流は、双方に「自らの意識の有り様」に対する自己言及的な分析(記述)を要請するとともに、自らの変化をも促す。主人公が二ヶ月前の自分の脳と理解し合うことができなかったのは、彼女に人工意識体との関係によって変質が起こったからだと言える。
この小説では、執拗な死の恐怖への執着がある一方、他方で重要な主題として、異なる形式の「知性」の間での交流があると言える。ただここで交流とは、分かり合うことではなく、相互干渉し、相互変化することだ(サマンサは人工意識体≪wanna be≫を理解する---把握する---ことを放棄することで、彼と相互作用する関係になる)。
しかし、相互変化とはゆっくりとした死だとも言える。交流によって、相互変化によって、以前のわたし(そして以前のあなた)はゆっくりと消えて別の「わたし」がたちあがる。人間も人工知能も、交流によって少しずつ変質し、少しずつ死んでゆく。
●でもそれは、あくまで「中味としてのわたし」の死であり、それは死というより新陳代謝に近いかもしれない。それとは別に、(中味の変化とは関係ない、抽象的な形式である)「持続する<ここ>としてのわたし」があり、そしてその強制的な切断としての死がある。